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カテゴリ:西暦535年の大噴火
日本で壬申の乱が終わり、天武天皇が律令国家完成に向けた改革を進めている頃、唐と新羅で戦争(唐・新羅戦争(670~676年))も終わりました。 新羅は旧百済領から唐軍を追い払ったものの、旧高句麗領では唐軍に敗れて鴨緑江の南に追い落とされ、鴨緑江北の広大な領土を放棄したことで、一応の決着を見ました。 唐は朝鮮半島から撤退して新羅の謝罪を受け入れ、唐に臣下の礼を取る朝貢冊封体制の枠組みを維持する形で両国の戦争は終わりました。 あっけない戦争の幕切れは、唐側に大きな要因がありました。 この頃唐の高宗は眼病を患い(当時、道教の長生術として丹薬が流行していました。丹薬は服用すれば不老長寿の仙人になれるとされましたが、原料は人体に有害な有機水銀とヒ素の化合物でした。高宗はこの毒でほぼ失明状態になってしまったのです。丹薬は唐代を通じて流行していて、大勢の人間が命を落としました。盛唐期の詩人として有名な、詩仙李白も丹薬による中毒死説があります)、政治への気力を失っていました。 元々自身の意思と言うよりは、妻則天武后の強い主導で始めた朝鮮半島の戦争ですから、泥沼化した戦争に嫌気がさしていたという事もあったのでしょう。 加えて東部国境で唐軍が消耗している間に、北部国境では一度は滅んだ突厥が再び勢力を盛り返し、西部でもチベット系の吐蕃(633~877年)が唐の国境を脅かしはじめていました。いつまでも朝鮮半島で、だらだらと戦争を続けている余裕は無くなっていました。 戦争を主導していた則天武后が、朝鮮半島放棄と戦争終結にあっさり同意したのも、夫高宗が事実上政務を執れなくなって、朝廷の全権を彼女が握ったこともあり、これ以上無理をして、華々しい対外戦争の勝利にこだわる必要がなくなっていたからでしょう。 彼女の権勢はすでに揺るぎ無かったからです(高宗崩御後、彼女は息子中宗を廃位して、自らが女帝(以後は、「武則天」と書きます)となり、唐を乗っ取って「周」と言う王朝を建てることになります)。 一方史上初めて朝鮮半島を統一した新羅ですが、長年の戦争による国土の荒廃は大きいものでした。 新羅の文武王は、敵だった唐との友好関係に神経をとがらせました。もし唐が再侵攻してきた場合、屈服するしか無いほど国力が消耗し尽くしていたからです。 彼は、百済や高句麗遺民の新羅の骨品制(身分制度)への編入に努め、三国民の宥和に尽力しました。 唐に連行された百済王族とは異なり、半島に残留者が多かった高句麗王族に積極的な婚姻政策を行って、新羅・高句麗両王家の統合をはかっています。 また、隋の煬帝が高句麗に10年以上後に侵略の罪をならして、戦争になった身近な歴史から、唐への警戒を解くことは無かったようです。いざという時、唐の侵攻を牽制出来る同盟相手は日本しかいません。文武王は日本へも朝貢して国交回復を求めました。 新羅が日本にも臣下の礼をとったのは、いまだ日本の方が国力は上であり怒らせたくなかったからでしょう。 朝貢使を迎えた天武天皇は、鷹揚かつ好意的に使者を遇しています。 内戦を経て即位したばかりの天武天皇にとって、朝鮮半島からの久々の朝貢は、威光を内外に示すまたとない機会であり、彼もまた、いざという時、唐に対抗するには、日本と新羅の連携が必要と考えていたのでしょう。 こうして日本は、まず新羅と講和・国交回復に成功しました。 興味深いのは、新羅とは親しく(日本を主君、新羅を臣とした主従関係ですが)交流を進めた天武天皇は、唐に対しては何のアクションも起こさず放置しています。 一見すると、兄天智天皇が、唐を侮って痛い目を見たのと同じ轍を踏んでいるように見えますが、天武天皇の外交センスは聖徳太子に並ぶほど優れたものでした。 彼はわざと唐に使者を送らないことで、日本の存在感を唐にアピールしていたのです(異説として、武則天のやり口を知っていた天武天皇が、彼女を嫌って、遣唐使を送らなかったという見解もあるようです。この話は唐の朝廷内の事情を深く知るレベルに、天武天皇に唐に識見があったことが伺えます)。 さらに日本の法制度を整備して(天武天皇の存命中に完成せず、孫の文武天皇(位697~707年)の時代に、大宝律令(701年)として完成しました)、法治国家への改革を急ぎました。 日本が唐と同等の法を整えてから使者を送れば、唐は日本を軽んじないと天武天皇は考えていたのです。事実、律令を整えてから日本は遣唐使派遣を再開しますが、法治国家になっていた日本を、唐は滅亡するまで最重要国として厚遇します。 また「日本」という国号と、「天皇」の君主号が法的に定められたのは、天武天皇の業績です。一見たいした事ではないように思えるかも知れませんが、国家と君主の有り方を法的に明確にした点で、非常に大きな意義がありました。 一方、天武天皇は国内の融和にも力を尽くしています。 壬申の乱の近江側の関係者に恩赦を下し、自身の子と天智天皇の皇子を招き、共に親族として慈しみあうよう諭しています(吉野の盟約。天智・天武両天皇の血縁関係はかなり複雑です。天武天皇の妻大田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統天皇)は、天智天皇の娘(母は蘇我石川麻呂の娘)、天智天皇の息子大友皇子の妃十市皇女は、天武天皇と額田王の間の娘で、何重にも及ぶ婚姻・血縁関係を結んでいました)。 また親新羅派と言われる天武天皇ですが、兄天智天皇が側近を百済系の人材だけで固めたのとは異なり、新羅系の渡来人を特別優遇せず、優秀と思えば、百済系や高句麗系、旧近江朝の者だろうと抜擢しました。 この方法は、唐の太宗がかつて行ったのと同じスタンスであり、有能な人材の登用と人心の安定にもつながりました。 特に、新羅系氏族を特別待遇しなかったことは、朝鮮半島諸国の政治的影響力を、日本の朝廷から排除していくことにもなりました。 彼ら朝鮮系氏族は、藤原氏や、皇族から臣籍降下した源氏や平氏などの新興貴族層が隆盛していくのと反比例して、平安中期ごろまでに、日本古来の豪族たちとともに没落し、歴史の表舞台から消えていきます。 これにより、日本の朝廷は、日本の国情に合った政策と、国の運営に集中できるようになっていきます。 大宝律令の完成した702年(大宝2年)に、日本は遣唐使派遣を再開しますが、律令国家に生まれ変わった日本を、唐(正確に言えば、武則天が唐朝を簒奪していた時代なので、周という国になります。この頃武則天は老齢でかつての手腕に陰りが出ており、705年に唐朝復活をはかるクーデターで失脚し、廃位されていた中宗が皇帝に復位して唐朝が復活し、失意の中翌706年没します)は高く評価して、大きな歓迎をします。 日本の序列は、先に唐に朝貢を続けていた新羅より上位におかれました。これは律令を持ち法治国家になった日本を、唐に準ずる「文明国」と、評価したからです。 かつて天武天皇がにらんだ通りの展開でした。 これにより白村江の「戦後」は終わり、日本と唐の親密な友好関係が始まります。 そして日本と唐の友好関係が深まるのに反比例して、日本と新羅の中は悪化していきました(両国が最も親密だったのは、天武天皇と文武王の頃でした)。 この頃、新羅も唐との友好関係が安定し、唐との戦争を意識した日本との連携も必要なくなっていました。 加えて外交的には、新羅は日本にも臣従する立場でしたので、それが強い不満になっていたのです(「新羅朝貢使の非礼」と言う話は日本の朝廷で何度か取り上げられており、実際に実施されることは無かったものの、何度か「新羅討伐」が、朝廷の議題になっています)。 何らかの取り決めがあったわけではありませんが、8世紀半ばには新羅からの朝貢使、日本からの遣新羅使は途絶え、直接交流は無くなりました。 こうして6世紀半ばから始まった東アジアの変動は、約200年を経てようやく安定期を迎えました。 同時にこれは、中国、日本、朝鮮半島の棲み分けが完了した瞬間であったとも言えます。 東アジアは、それぞれ核となる国の部分を保ちつつ、関わり合いながら発展していくことになります。 長々と続けました東アジアの話は終了です。次からはアメリカ大陸の話に入っていきたいと思います。
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