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R わたしのブログ 徒然日記 山歩き

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2010.07.19
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 日曜日、南紀の栂谷を歩き、夜は羽津子のちゃやで懇親会、その帰りに、奈良百遊山の一つである、玉置山に登り、玉置神社を訪問した。久しぶりの百遊山である。

 南紀には熊野三山が設けられるなど、由緒ある神社仏閣が多く存在する。大峰の修験信仰とも関わりが深い。

 私達の多くは、日常、宗教に無関心であり、特に決まった宗教や宗派を持っていない人が増えている。これは戦後、住民移動が激しくなり、長い間住んでいた場所を離れてしまうことによって、伝統的に当たり前のように馴染んでいた氏神や地域信仰のことも忘れてしまったからである。

 もともと日本では、宗教観というより、生活の中の様々な儀式として利用されていたに過ぎないので、生活様式が変われば、簡単に使用する神の姿を変えることができた。宗派教義にこだわる人もいるが、重要視しない人の方が圧倒的に多い。

 日本人の変わり身の早さは、このようなところから来ているのだろう。国策として神や仏が利用されることも多かった。支配層が国体を維持するために宗教的儀式を利用してきた。そのため、時の支配者が変われば、神や仏の姿も変化してきた。

 歴史的には、神仏混淆・神仏習合の時代が長く続いたが、近年の神仏分離政策は、神社と寺社の在り方に大きな変化をもたらした。神仏分離の動きは、一般に江戸時代中後期以後の儒教や国学に見られる復古神道によるが、明治新政府により出された神仏分離令に基づき政策的に全国で行われたものである。

 さて、玉置神社は大峰山系の南端、奈良県吉野郡十津川村の玉置山(1076.4m)の山頂直下に鎮座している。歴史を調べてみると以下のことが紹介されていた。
 紹介文『紀元前、崇神天皇によって王城火防鎮護と悪魔退散のため早玉神を祀り、以来玉置と名づけられました。7世紀後半、役小角(役の行者)が修行、大峰山を開いて修験道の地として栄え修験者の往来、修行が増え神体山・玉置山の名を高めた。高野山を開いた空海も修行に 訪れたのではないかと言われる。858年には天台宗の三井寺(園城寺)を開いた智証大師が修法加持して本地仏を祭り、以後神仏混合が続き、玉置神社には最大で2~300人前後の神官や僧侶が修行していた。しかし、明治時代に入り廃仏稀釈が行われ十津川村の郷社となりました』

 ところで、日本には何人の神様がいるのかだろう?玉置神社(本社)の御祭神だけでも、国之常立尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊 天照大御神 神日本磐余彦尊の5人もの神様達がいる。
 玉置山頂  玉置神社
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最終更新日  2010.07.29 23:06:41
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