現代詩「河川敷」「明日の行方不明」「在る」
「河川敷」河川敷に転がる物語を説明するのは簡単なことではない夢見がちな砂礫たちは、その身体が今よりも大きかったころを思い出し、眠る列車が駆け抜けていき、悲鳴をあげる鉄橋は、あるいは、死にたがっているのかもしれない 橋脚に、ぼくは言葉を刻む適度な大きさの石を掌にその冷ややかな感触を握りしめながら「さようなら」上手く説明する必要など、そもそもないのだ。 「明日の行方不明」“明日”がその姿を隠してからもう二週間が過ぎていた関係各所では懸命な捜索が続いているだが、発見されたのは異母弟の「昨日」、遠縁にあたる「来週」、赤の他人である「いつか」 「明日」はどこへいった?「在る」三か月の間、母が暮らした病室は薬品の匂いと生活雑貨、そして、病と死の気配に満ちていた しかし、それらも今では少しずつ、薄らぎ、まぎれ、消えゆく痛みや静けさだけは今でも、繰り返し鳴り続ける鐘の音のように繰り返し、おしよせる。おしよせる。おしよせる。 持ち込まれたCDデッキが、母の好きだったロックミュージックを繰り返し再生している。ピッキングハーモニクスが空間を引き裂く。ディストーションの効いた低音が足元に広がる。ヴォーカルのシャウトが、世界の理のうちいくつかを明白に否定する それでも、僕はここで思う。ここで聞く。ここで、打ちひしがれる。鐘の音は繰り返し、繰り返し。おしよせる。おしよせる。おしよせる。