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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・・佐賀県
白石町の須古城跡に来ました。33.179908, 130.104113
![]() これから登ってみます。 ![]() 所々に、この様な表示板がありました。 ![]() ![]() 離れたところに、城の説明板が在りました。 ![]() 須古城址:戦国時代にはいると、我が郷土は、小城の千葉氏と高来の有馬氏にはさまれて、戦場と化すことが多かった。千葉氏は家来の平井氏を須古にとどめ、有馬氏に備えた後、平井経則は、有馬に組し杵島の地を支配した。平井氏は、居城を高城(のち隆城ともいう)に定め、城濠を南・北共に百町牟田まで延長して、周囲をかこみ、大手口から搦手に通ずる城廊には、一間の土堤を巡らし、尚南には二重濠になった枳?土手を築いて防備をかためた。 また搦手以西の百町牟田を、浅瀬でも、泥濘膝を没して渉ることができない地とし、これも利用した。 更に、西に杵島城・東に男島(小島)城を配備し、高城の両翼とした。 当時、九州の諸豪と相競いながら、努力の拡張をはかっていた龍造寺隆信は、有馬氏に応じていた、須古高城の城主平井経治をうつことにした。 かくして1563年から1574年にかけて、12カ年の歳月をついやし、平井経治の居城高城を落城させることができた。 隆信は、5州2島の太守として君臨していたが、有馬攻めが意の如く進まないので、急遽島原に出陣したが、地形を利用した島津・有馬の計略にかかり、惨憺たる敗北を喫し、隆信は戦死した。時に、1584年3月24日未の刻、行年56才であった。 隆信戦死後、舎弟龍造寺信周(須古鍋島家始祖・杵島神社祭神)は、須古城に入場、南・北外濠を埋め、百町牟田を排水し、溜池を築造して、良田百余町を開拓した。 そしてこれが周辺地図。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.09.23 00:00:16
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