161007歴史散歩・豊前街道・白坂・官軍墓地・追分
豊前街道・白坂に来ました。33.029592, 130.615623豊前街道 白坂: 豊前街道の中で、昔に近い景観がよく保たれている場所である。 (中略) また、「肥後隈本軍記」によると、戦国末期の天正15年(1587)肥後で起こった国衆一揆においては、山鹿の城村城において隈部氏との戦いを繰り広げていた佐々軍に対し、食糧物資を届けた立花宗成軍の帰路を、和仁・辺春・大津山軍がここ白坂で襲ったという。この襲撃をきっかけとして、和仁・辺春氏も一揆に加担し、田中城に立て籠もることになったと伝わっている。新しい標識碑も建っていました。33.037457, 130.588048肥猪官軍墓地に来ました。33.038495, 130.586060南関町追分がありました。 追分の道しるべ (南関町大字細永字尾楢): 追分とはもともと道路の分岐点を指すことばで、あわせてその周辺に形成される集落のなまえにもなりました。またそこには旅人が休息するための茶屋や飯屋ができ、物資の流通拠点に発展することもありました。 ここ南関町の追分は、豊前街道と高瀬往還の分岐点にあたり、街道を南に下る旅人のための道しるべが建てられました。石柱に「左やまか道」、「右たかせ道」と大きく文字が彫り込まれています。残念ながら建てられた年代はわかりません。 道しるべのうしろに、左から地蔵さん二体、早馬(ハユマ)神社、恵比須さんが祀られています。早馬神社は牛馬の神様として信仰されてきましたが、その源流は古代駅伝制の駅馬(ハユマ)にあるといわれています。 また、ここから旧豊前街道を関町方面へ250mほど進むと、沓掛(くつかけ)という地名の畑地が広がります。沓掛とは履き古した沓を道端の木に掛けて旅の無事を祈るということから、休泊場所や難所にさしかかる地点の意味に転化したことばです。 この沓掛一帯を、古代の南関地区に存在したとされる「大水(おほむつ・おおず)駅」跡の有力な候補地と考える研究者もいます。