181003荒尾・本井手・孝女津麻子の碑
本井手・川北の孝女津麻子の碑に来ました。33.001898, 130.476229荒尾の教育委員会の説明板がついていました。孝女津まの碑 : 津まは、江戸時代の頃、川北の貧しい農家に生まれ、幼い頃から子守奉公などで、僅かな給金をもらい、親の暮らしを助けました。よそに働きに行っている時も、両親がどんな暮しをしているかいつも気にかけていました。南関に奉公中は、三里の道も苦にすることなく、たびたび家に帰り両親の世話をして、翌日は夜の明けないうちに奉公先に帰り、勤め先の仕事にめいわくをかけることはありませんでした。 父が病気で亡くなった時は、奉公中で看護を十分につくすことができなかったことを非常に残念に思っていました。そのうち、母も年をとったので、せめて母にはそばで十分な孝行をしようと決心して、六十一才の時、奉公をやめて川北に帰り、ささやかな家を建て、裁縫で暮しを支え、母に孝行のかぎりを尽しました。 ある時、ふとしたけがのため、歩くことが困難となりました。しかし津まは、歩くのは不自由でも、手でする仕事に支障はないと言って、母の世話に人の手を借ることはありませんでした。 このことが、人々の感動をよび、評判となり、藩の役所にもしられ、寛政四年(1792)藩主からその孝行の賞として、毎年米三俵をたまわることになりました。 津まは、文化六年(1809)八十三歳で亡くなりました。 荒尾市教育委員会顕彰碑2018年7月の講演で、孝子・孝女伝について教えて頂いてました。江戸期・明治期と全国で孝行息子や娘の話が取り上げられ、領主から褒美が出されて顕彰されたのだそうです。全国に顕彰碑があるそうですが、荒尾にはここに在ります。隣に明治期に建てられた顕彰碑。説明板にあった墓跡碑(発見出来ず)や屋敷跡へ行こうと、路地を出て旧道に案内杭が有りました。33.000087, 130.478472顕彰碑と案内してありますが、ここからは屋敷跡への入り口です。位置が違っています。顕彰碑への入り口ならば、33.000831, 130.476289が良いと思ったら、こちらにも案内杭が建っていました。