331715 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

セミリアイア「晩年」日記

セミリアイア「晩年」日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

q蔵

q蔵

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

フリーページ

ニューストピックス

2021.09.13
XML
カテゴリ:随想
特進クラスの担任を任されて以来、授業はほとんどそのクラスだけで、やってきた。

現代文はもともと文章読解には自信があったし、中学の時以来、試験で間違えた覚えはあまりない。もっとも、バカな教師は指導書通りの「正解」しか認めず、60字くらいの記述問題の正解を授業中に提示し、一字一句その通りにテストで再現しないと認めない、というようなことをするので、△になる答案は結構あったが、こちらが「バカめ」と思っていただけで、間違ったとは思わなかった。

そういう教師は、職場にもごろごろいた。なにしろ「指示語の問題は、その一行前」などという教え方を平気でするのだから、どうしようもない。そんな、そもそも「国語」ができない「国語の先生」がいっぱいいたのである。指導書をご丁寧にコピーしてノートにきれいに貼って授業に行くような教師は何人もいた。

文章を読解するとうことは、自分で読んで解ることなのだから、人の読解をしどろもどろに伝えてうまくいくはずがない。自分は、自分の読解を教えている。そのことについては、また稿を改めて書いてみたい。

現代文という科目は、「現代」についての「文章」だから、時代が40年も経てば、昔の「現代文」はもはや現代についての文章ではなくなることもある。それがこの科目の面白いところで、生涯の仕事になった理由だろう。

面白いなと思った文章を教科書に掲載されているものを中心に、しかし、決してその枠にとらわれず、教えていく。

特進コースの生徒は概して能力が高いが、そういう国語の授業を受けたことがないので、だいたいはびっくりし、面白がる。中には、その時点で、暗記主義に染まってしまった生徒もいて、拒否反応を起こすケースもあるが、それはしょうがない。

冷たいようだが、そういう生徒を文章が読める生徒にはできない。また、文章がちゃんと読めなくても生きていけるし、そういう人間は国語の教師を含めてたくさんいるのだから、別にいいじゃないかと思う。自分の周りにもたくさんいるし、別に貧困に喘いでいるわけでもない。一応は、この時代でも中流、アッパーミドル層に入るような人たちだ。中には相当のお金持ちもいる。あるいは、すごく善良でいい人たちも多い。

おそらくこれまで教えてきた生徒たちにとっても、その後の大学教育を含めて、自分の授業は最も知的刺激に満ちた授業であり、そういう人生の体験が、たとえ役に立たなくともあった、というだけでいいじゃないかと思う。

「独善的」という批判はあるだろう。しかし、他者の評価に振り回されるよりも、「自己評価」が高いことのどこが悪いのか。というか、生徒評価でも全科目のトップは自分の授業なのだ。そこに囚われてはいないが、プライドは持っているし、そのための努力はいつもしてきたし、今もしている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021.09.13 05:13:43



© Rakuten Group, Inc.
X