プロはやはりプロだ、ということ。
昨日のピアノレッスン。『人生のメリーゴーランド』は、だいたい5分くらいの結構長い曲だが、かなり弾けるようになったかな、と思ってレッスンに。が、初っ端から「この、rubatoって記号は、ショパンの曲なんかにもよく付くんですけど、『揺れるように』という意味です。だから、こんな感じで」と先生が横から、冒頭のフレーズを弾く。「何だ、全然違うじゃないか」と思う。一音一音の、何というか「芯」が違う。そして、確かに「揺れて」いる。主題として何度も現れるオクターブ和音のスラー。これも、やはり、「つながりを意識して」、という指示。指が短いので、元来苦手なのだが、言われて、ちょっとしたことを直すと、少しは違うのが自分でも分かる。苦労していた音飾符の弾き方も教えてもらった。しかし、こういう「才能」とは言わなくても、少なくとも、子ども時代からの長い期間の修練の果てに身につけた「能力」を、レッスンプロとしてしか活かせないというのは、不幸なことだ。たった、1回5,000円のレッスンを詰め込んだとしてもせいぜい一日5人。教育大出のアタマも悪ければ、音楽の才能もなし、そのくせたいした練習もしないような学校の教師の方が、ずっと稼いでいる。せめて、1,000円か2,000円のコンサートが毎月200人、満杯になるくらいの文化的土壌があれば、救われるピアニストは、地方に何人もいるだろう。ショパンコンクールでちょっと有名になると1万円のチケットでも買う人たちが、地元の本当に凄い演奏家のコンサートには見向きもしない。彼らのような「華」はないかもしれないが、それでも十分にショパンを味わえるピアニストは、同じ街にいるのだ。とまあ、昨日、試験を作ったので、今朝はゆっくりと書いたのだが、息子の同級生だが、本当に自分のような60の手習いの面倒を見るのはもったいないくらいの「先生」である。せめて、毎日の練習に励むのは、自己実現のためばかりではないのだ。