カテゴリ:Day
「先生の日常の話を聞くだけで、何となく心が和んでくるんです」
そんな言葉が書かれていたからではないが、僕は彼女のメールが来るたびに返事を書き続けた。 最初は2日で1往復だったやりとりも、すぐに1日で1往復になり、時には1日に数往復することもあった。彼女とのメールのやりとりだけで夜が過ぎていったこともあった。 彼女はそれから毎日のように僕がいる研究室の前にやってくるようになって、僕もできるだけ彼女の話し相手になるようにしていたのだが、僕も暇な身ではなかった。 そんな時は彼女にちょっと声をかけてから研究室を離れるようにしていたのだが、振り返ると彼女は俯いたまま研究室の前で壁により掛かっている姿が見えた。 廊下の反対側にある体育館から僅かな光が差し込み、彼女の姿がシルエットになって薄暗い廊下に浮かんでいる。この学校の光の中で、彼女はまだ影を纏っていた。 あれは中間試験が終わったばかりの頃だったと記憶している。薄暗い廊下で一人ポツンと立っている彼女に、2つの変化があった。 成績処理のことについて進路室に行っていっていた昼休み、ちょっと小走りに研究室に戻ると、研究室前の影が一つ増えていた。 もう一つの影は、中学からの彼女の親友だった。二人で壁にもたれかかって、何か話している。 やがて僕に気付いた親友は、 「あっ、センセー、なんかお菓子持ってない?」 「はぁ?」 「なんかね、和菓子が食べたくなったの」 「何で、僕が学校に和菓子を持ってこないといけないんだ?」 「えーっ、だって先生和菓子が好きだって言ってたじゃん」 確かに授業中に僕はどちらかといえば甘党で、和菓子が好きだと話した記憶はあるが……。 持ってるわけないだろと僕が呆れながら言うと、まるで計ったようにチャイムが鳴った。 「なんだー。じゃ、いこっ」 まるで今まで和菓子が食べたくて待っていたことも忘れたかのようにくるりと背中を向けると、彼女と一緒に教室に戻っていった。 それから、その彼女の親友も、下らない理由を作っては研究室にやってくるようになった。 それも、僕がいないときに限って。 そのうち、僕を待つ人数は、3人になり、4人に増え、僕はいなかったので分からないが、多分教室にいるのと同じように大声でおしゃべりしていたんだろう。目の前の廊下で騒がれて、同室の先生方にはさぞ迷惑だったと思う。でも、他の先生方は文句を言うこともなく、時には彼女たちのおしゃべりの輪に加わったりしていた。 1度、その親友に何で僕がいないときに限って来るんだと聞いたことがあった。すると彼女はニタリと笑い、 「いやー、お邪魔じゃないかなって思ったんで……」 僕はどぎまぎしながらそんな冗談は言うなと軽く怒った振りをしたが、心の中では彼女に感謝し、彼女の優しさを温かく感じていた。 もう一つの変化は、火曜と金曜の放課後は、彼女の姿が見えなくなったことだ。 さりげなく聞いてみると、その日は最初に音楽を習った先生の所に行っていると教えてくれた。 彼女の近所に住んでいるその先生は、自宅の一部を改築して子どもたちに音楽を教えているそうで、有名な先生に通うようになっても近所づきあいがあるそうだ。 一切のレッスンを止めてしまった彼女に、ある時その先生が声をかけてくれたらしい。 火曜と金曜は今のところレッスンがないから、良かったらお茶でも飲みに来なさい、って。 その先生の家で彼女はお茶を飲みながらちょっとしたおしゃべりをするだけだったそうだが、時には楽器を触らせてもらい、まるで十年前に戻ったかのように、レッスンを受けることもあったとか。 彼女の抱えている問題が解決に向かっているという話は一向に聞こえてこなかったが、彼女は少しずつ明るさを取り戻していっていた。それは、いろんな人が彼女に手を差し伸べ、あるいは背中を支えていったからだろう。その中には、彼女は気付いていない手もあったと思う。 3学期に入ると、彼女は昼休みに研究室前に姿を現さなくなった。昼休みは、大抵教室で友だちと過ごすようになったからだ。 彼女は、日当たりのいい場所に戻っていった。 今、手元にはその年に彼女からもらった年賀状がある。 その年の干支の着ぐるみを着た彼女自身のイラストがハガキ一杯に大きく描かれているのだが、 その顔はこぼれんばかりの笑みを浮かべていた。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.01.31 01:42:36
コメント(0) | コメントを書く |
|