カテゴリ:Night
まだ一度も顔を合わせたことのない生徒が数人いる。
そのほとんどは、ひょっとしたら本人すらも分からない理由で心を閉ざしてしまい休学した生徒たちだ。中には3年近くも休学している生徒もいて、僕より先にこの学校に来たのに、その子の顔を知らない先生もいる。 今日、両親が学校を訪れた生徒も、そんな風に長く学校から遠ざかっている子だ。 その生徒は、一応4月からもこの学校に籍を起き続けることになった。 ただ、その子は休学扱いになっていない。出席簿上は、長期欠席が続いている形になっている。 これは両親の希望だそうだ。 休学扱いになれば学費が半額になるし、予定していた休学期間の途中からでも学校に戻ることはできるのだが、敢えてそうした手続きを取らなかった両親の気持ちも少しだけ分かるような気がする。 それは、「休学」という言葉で子どもが傷つかないよう、ちゃんと戻る場所があることを子どもに示そうと思ってのことかもしれない。 だが、と僕は考える。 それは、子どものためだけだろうか。 ひょっとしたら、自分たち、両親のためでもあるのかもしれない。 長く学校を休んでいるけど、別に退学や休学しているわけじゃない。その気になれば、また明日からでも学校に通うことができるんだ。 そう思うことで、子どもの将来に対する不安を無理矢理麻痺させようとしているのではないだろうか。 おそらく、その子の両親にとって、この学校は不安に包まれた世界の中に垂らされた一本の蜘蛛の糸のようなものかもしれない。 上ろうとしたらすぐに切れてしまうかもしれないが、ただ眺めていれば、いつかはこの糸を上って別の所へ行けるかもしれないというかすかな希望を抱くことはできる。 これは、その子の両親だけではなく、他の休学している生徒やその保護者も、同じような感じなのかもしれない。 だが、ただ眺めているだけでは、何かが変わるはずもない。これでは、苦しみを一時的に和らげるモルヒネを打ち続けることと同じだ。モルヒネを打ち続ければ、最後には廃人になってしまう。 だから、休学ではなく退学というカードを学校が示すのは、そうした状況を終わらせ、新しい道を探すよう勧める意味がある。 ただ眺めているだけの糸がなくなれば、それまでは一歩も動かずにいたけど、何か別の糸、もっと太い糸を探して動くことができるかもしれない。 それは十分分かってはいるのだが、目の前に垂れている糸を切らせたりすり上げることを敢えてするのがいいことなのか、 僕には分からない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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