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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2006年01月07日
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カテゴリ:西アジア・トルコ
 今日は中東関連のニュースを切り貼りするだけの手抜き日記。ただ気になるニュースが並んでいる。

 北から順に、まずは9日から小泉首相の訪問が予定されているトルコから。小泉首相の中東歴訪はむしろイスラエルとパレスチナが主目的だったようだが、シャロン首相の急病(下記)でトルコだけになってしまった。政府としては目論見が外れたというべきか。
 しかしまあ日本の首相がトルコを訪問するのは15年ぶりだそうで、僕としては嬉しいことではある。日本の出資で作られるイスタンブルでのボスポラス海峡海底トンネル着工式?などに出席の予定だそうだ。産油国でもないトルコは日本にとっての経済的な価値は二の次なのだろうが、ロシアとの接近、EU加盟交渉、イラクの平和維持など、トルコは地政学的にも重要であり続けるに違い無い。

(引用開始)
トルコ、3人目の子供が鳥インフルエンザで死亡
[アンカラ 6日 ロイター] トルコの国営アナトリア通信は、同国東部の病院で治療を受けていた子供が鳥インフルエンザのため死亡したことを明らかにした。この家庭では、すでに2人の兄と姉が鳥インフルエンザで死亡している。
 死亡したのは11歳の少女で、先週末には14歳の兄が、5日には15歳の姉が相次いで死亡した。
 この家族はアルメニア国境付近の辺境部の住民。
 現在、この家族の6歳の男の子も、鳥インフルエンザで治療を受けている。
(ロイター) - 1月6日16時54分更新
(引用終了)

 この家族が住んでいるのはドーウバヤジットと書いてあった。あの辺だと病院に行くのも大変だろうな。
 去年9月、トルコからドイツ帰った直後にひどい風邪をひいて数日寝込んだのだが、その直後に「トルコでも鳥インフルエンザ発生」と報じられて、研究室仲間のドイツ人共々笑うに笑えなかった。確かにインフルエンザに罹ったのだろうが、その後ドイツで鳥インフルエンザの話は聞かないので僕のは違ったのだろう。


 次は僕は最近すっかり足の遠のいたシリア。バッシャール・アル・アサド現大統領が父親の死でその後任に就任してからは行っていない。
(以下引用)
<ハリリ元首相暗殺>アサド大統領が恫喝 元副大統領が証言
 【カイロ高橋宗男】シリアのハダム元副大統領は30日、中東の衛星テレビ「アルアラビーヤ」で、レバノンのハリリ元首相暗殺(05年2月)の数カ月前、アサド・シリア大統領が「我々の決定を邪魔する者は誰だろうとたたきつぶす」と同首相を脅していたと証言した。ハダム氏は「いかなるシリア機関も独断でこのような決定はできない」と述べ、元首相暗殺へのシリア政権中枢の関与を示唆した。
 ハリリ元首相暗殺事件では、国連の独立調査委員会が2次にわたる報告書を安保理に提出し、シリア機関の関与を示唆。シリア側は報告書を「政治的」と批判し、事件への関与を否定しているが、ハダム氏の証言によりアサド政権はさらに窮地に追い込まれそうだ。(中略)
 ハダム氏はアサド大統領の父、故ハフェズ・アサド前大統領時代からの重鎮。84年から21年間にわたって副大統領を務め、昨年6月に辞任した。レバノン駐留シリア軍の撤退をめぐるシャラ外相との路線対立が辞任の背景にあるとされる。
(毎日新聞) - 12月31日18時45分更新

アサド政権転覆呼び掛け 元シリア副大統領
 【カイロ7日共同】シリアのハダム元副大統領は6日付のアラブ紙アッシャルク・アルアウサトのインタビューで、「この体制は変革しようがなく、追い出すしかない」と主張、アサド大統領が率いる現体制の転覆を呼び掛けた。
 元高官が政権打倒を目指し、積極的に反体制活動に関与する姿勢を鮮明にしたことで、アサド大統領はますます苦しい立場に追い込まれそうだ。
 ハダム氏は「シリアの人々が政権を転覆する環境をつくろうとしている」と述べ、国内の反体制派と連携する考えを示した。また「わたしは国を救う政治的な計画を持っているが、大統領になる計画はない」と強調。一方で「変化は内部から来なければならない」と語り、外国の干渉は拒否した。
(共同通信) - 1月7日8時52分更新
(引用終了)

 気になるのは二番目の政権転覆云々のニュースだが、これはアブド・アル・ハリーム・ハッダーム元副大統領が吹いただけで、具体的にすぐアサド政権が倒れるということは無いだろう。この元副大統領からして政権でのうのうとしていたのだし、そういう呼び掛けをしても反体制派にすれば「何をいまさら」だろうし、アサド大統領の属するアラウィ派にすれば裏切り者に過ぎないだろう。「1984年に副大統領就任」というと、アサド前大統領(故人・現大統領の父親)が弟のリファアト副大統領(現大統領の叔父。現在フランスに亡命中)と対立した事件の直後ということで、前大統領にとっては忠臣であり、ニ代目当主(現大統領)に厄介払いされた格好になる。
 シリアの秘密警察は宿敵イスラエルと対峙するため中東でも冷酷非情で知られているそうだが(かつて外国人登録のために行った地方の秘密警察の庁舎はのんびりしたものだったけど)、国民の隅々まで監視網が行き届いている。フセイン政権があれほどの制裁下で結局アメリカによる侵攻まで続いたのと同様なものだろうし、北朝鮮も似たようなものなんだろう。


(引用開始)
<シャロン首相>和平政策めぐり、国内に垣間見られる分裂
 【エルサレム澤田克己】ユダヤ教の安息日「シャバット」にあたる7日、イスラエル各地のシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)には多くのユダヤ教徒が集まった。重度の脳卒中で危険な症状が続くシャロン首相の回復を祈る声も聞かれたが、首相が昨年強行した占領地・ガザ地区からの撤退に反対したユダヤ教原理主義者は「彼のためになど祈らない」と反発するなど、国民の間にも和平政策をめぐる同国内の分裂を垣間見られた。(中略)
 こうした声の背景には、首相が昨年、ガザ地区にあったユダヤ人入植地すべてを撤去し、撤退を強行したことがある。
 イスラエルでは95年、和平へ向けて「オスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)」をまとめたラビン首相がユダヤ教原理主義者の青年に暗殺された。最近も、シャロン首相暗殺が起こりうると考える人が世論調査で8割を超えるなど、原理主義者の動きに対する懸念が高まっていた。
 シャロン首相は6日に新たな脳内出血を止める手術を受けた後、脳へのダメージを抑えるために人工的なこん睡状態に置かれている。現在も危険な症状が続いているが、病院側は特別なことがなければ、安息日の終わる7日日没まで病状に関する発表を行わない方針だ。
(毎日新聞) - 1月7日19時23分更新
(引用終了)

 野党(リクード)党首時代に「岩のドーム」訪問を強行してパレスチナ側の反発を招く一方で強硬派のイメージで登場したシャロン首相だった。その頃は最初から日本を含む外国マスコミでは悪役イメージだった(僕もそういうイメージだった)。また「(自分の国防相時代に)レバノンでアラファト(PLO議長・故人)を殺しておけば良かった」と過激な発言をしてヨーロッパからも嫌われた人物である。
 ところがそのアラファト(外国での抵抗者イメージとは裏腹に私服を肥やしていたというが)は今は亡く、またシャロンは独断専行とさえいわれる強力なリーダーシップでガザ地区撤退を実行に移し、今度は強硬派から「裏切り者」呼ばわりされ命を付けねらわれたり呪われたりする。イスラエルの政界も大変である。宿敵アラファトは度々の危機を乗り越えて意外にもベッドの上で死んだが、今度はシャロン首相が死の床(いささか不謹慎だが、77歳の年齢を考えると政治的には死者だろう)にあって、イランの大統領に「死んじまえ」と悪罵を浴びせかけられている。
 イスラエルの政治は概ね軍人出身(国民皆兵だから当然とも言えるが)の果断な政治家がリードしてきた。エジプトと和平したメナヘム・ベギン(テロリスト出身ながらノーベル平和賞を受賞)、パレスチナと和解したイツハク・ラビンなどはそのいい例だろう。例外的なのは首相や外相を歴任しノーベル平和賞も受賞したシモン・ペレスだが、彼はそのソフト・イメージによる外国での人気とは裏腹に、国内では今一つ人気が無いようだ。果断さに欠けるからだろうか。
 シャロンはこうした「中東戦争を知る世代」の最後の生き残りだったが、ベンヤミン・ネタニヤフやエフード・バラクという、軍歴はあっても戦争を指導した事が無い世代が首相になったり政界の主流になるにつれ、どうもカリスマ的な政治家が消えつつあるようだ。非常にかじ取りが難しいパレスチナとの和平にあって、国民を信服させつつ手強いネゴシエーターであるアラブ人との交渉に堪える政治家が「シャロン後」に居るだろうか。

 次はイラク。
 昨年11月に人道援助活動中にイラクで誘拐され、三週間後に解放(状況は未公表)されたドイツ人女性考古学者ズザンネ・オストホフさん(43歳)へのマスコミによる「バッシング」が行われているという。「ドイツ人は私を憎んでいると思う。誰も私に味方せず、私を無鉄砲にも地雷や爆弾の間でイラクをうろうろする正気でない人間のように扱っている」と彼女は「シュテルン」誌とのインタビューで述べた。また在イラクドイツ大使館の彼女への対応も批判している。
 彼女は解放直後に「イラクにまた帰りたい」と述べたと報じられ、その発言がナイーヴだと批判されたが、それについては「そんな事は言っていない。私が望んだのは娘と会う事だけだった」と反論。また解放直後のテレビ局とのインタビューでぞんざいな対応をして視聴者の反感を買った事については「人質になっている間の睡眠不足と、服用した薬の作用によるものだった」と述べた。また彼女の家族もバッシングの対象になっているという。
 日本でも二年程前にイラク人質事件があって、人質や家族への「バッシング」が話題になったことがあった。その時は「こういう現象が起きるのは日本だけだ」としたリ顔に述べる人もいたようだが、ドイツでも似たようなものらしい。ふらりとイラクに行った人たちと、イラク情勢に通じまた現地での人道支援活動を続けていた人とを同列に扱っては失礼にあたるだろうけど。
 なお今日になってオストホフさんはドイツ連邦情報局(BND)のイラクにおける情報提供者だったとも報じられている(「ヴェルト」紙)。情報提供によりいくばくかの礼金を受け取っており、2005年5月にザルカウィ・グループから彼女に脅迫状が来たのを機にBND側から関係を打ち切ったが、その後もBND要員との接触は続いていたという。こういう報道もバッシングの一種になるのだろうか。





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最終更新日  2006年01月08日 02時48分05秒
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