1155610 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2006年05月22日
XML
カテゴリ:ヨーロッパ・EU
(引用開始)
<モンテネグロ>独立賛成派、勝利 EUの承認条件を達成
 【ウィーン会川晴之】連合国家セルビア・モンテネグロからの分離・独立の是非を問う国民投票を21日に実施したモンテネグロの選挙管理委員会は22日午前、賛成票が55.4%と独立に必要な「55%以上」の規定を上回ったと発表した。
 欧州連合(EU)のソラナ共通外交・安保上級代表は同日午前の会見で「国民投票が整然と行われたことに祝意を表する。投票結果を尊重する」と述べ、独立を認める考えを示した。
 また、選挙監視に当たった全欧安保協力機構(OSCE)も同日午後の会見で、選挙が公正に行われたと認定、最終開票結果を見守る考えを示した。選挙結果が確定すれば、旧ユーゴスラビアを形成した六つの共和国はすべて独立する形となる。(中略)
 開票の結果、賛成は55.4%、反対は44.6%だった。国民投票の仲介に当たったEUは、独立承認の条件を「55%以上の賛成」としており、かろうじて達成した。ただ、結果が極めて小差だったことから、独立に反対したセルビア系住民やセルビアとの融和が今後のカギとなる。
 セルビア・モンテネグロの国家としての継承権はセルビア共和国にあると両共和国の合意で決まっており、モンテネグロは国連をはじめとする国際機関への加盟申請作業に入る。また、在外の大使館や軍隊など両共和国が共有する国有財産の分割交渉を始める。
(毎日新聞) - 5月22日22時33分更新
(引用終了)

・・・・・・
 モンテネグロ共和国は面積1万3千平方キロ、人口62万人で、かつてユーゴスラヴィア連邦を形成し、今はセルビア共和国と国家連合している小国である。面積規模でも、またディナルアルプス山脈の中の山がちな地域という点でも福島県と似ているが、人口は150万人も少ない。このバルカン半島の「福島県」はアドリア海に面している。
 連合相手のセルビアは、面積ははるかに大きい北海道ほどの大きさで人口もモンテネグロの15倍あり、東隣にあるが、南はアルバニア、西はクロアチア及びボスニア・ヘルツェゴヴィナと国境を接しており、このうちクロアチアとボスニアは旧ユーゴスラヴィアに属した国である。首都は内陸にあるポドゴリッツァで、社会主義ユーゴスラヴィアの時代には大統領の名前をとって「チトーグラード」と呼ばれていた。
 「モンテネグロ」というイタリア語の通称は他称で、かつて海岸部を支配したヴェネチア共和国の船乗りが、この国の松に覆われた山を見て「黒い山」と呼んだことによる。自称ではやはり「黒い山」を意味する「チュルナ・ゴーラ」という。
 僕は何度かセルビアに行ったことはあるが(モンテネグロには無い)、それまで国内の車の多くが「ユーゴスラヴィア」を意味する「YU」の国籍表示ステッカー(多くの国が陸続きのヨーロッパではよく見かける)を貼っていたのが、2003年2月4日の連邦解消・国名変更の直後に行くと早速「SCG」(セルビア・チュルナ・ゴーラの頭文字)とあるステッカーが登場していたのを覚えている。

 モンテネグロも旧ユーゴスラヴィアらしく多民族国家であり、国民のおよそ4割がモンテネグロ人、3割がセルビア人、その他スラヴ系のイスラム教徒1割、アルバニア人5%などとなっている。モンテネグロ人とセルビア人は言語も宗教(ギリシャ正教)もほとんど共通しており、モンテネグロ人を独立した民族と見なすかどうかは議論の分かれる所となっている。
 むしろ多分に個々人の帰属意識あるいは政治的立場による所が大きい。最たる例は旧ユーゴ内戦の際セルビア民族主義の権化のように言われたスロボダン・ミロシェヴィッチ元連邦大統領であり、彼の両親はモンテネグロ人だが、彼自身は自分をセルビア人と思っていた。興味深いことに、母語を尋ねた国勢調査では、憲法で「セルビア語の西方方言」と規定されるモンテネグロ語が2割に過ぎないのに対し、セルビア語と答えた者は6割に達し、上の民族帰属意識調査に一致しない。
 最近はモンテネグロ人は紀元前の先住民族イリリュア人に起源があるとする、スラヴ主義を前面に押し出してきたセルビア人とは別のアイデンティティを求める動きもあるが、起源がどうであれ実態としてセルビア人とほとんど違いはない。このことはセルビア人がモンテネグロにおいて、イスラム教徒の多いボスニアやアルバニア人、カトリックであるクロアチア人との間に経験したような凄惨な民族紛争に至らなかった大きな要因だろう。

 395年、ローマ帝国が東西分裂した際、属州イリリュアに属していた現在のモンテネグロの地は、ほぼ東西ローマ帝国の境界上にあった。西ローマ帝国が分裂から100年もしないうちにゲルマン人の手に落ちて滅亡したのに対し、東ローマ(ビザンツ)帝国はその後1000年の命脈を保つことになるが、モンテネグロも1077年まで断続的ながらおおよそビザンツ帝国の支配下にあった。
 7世紀には中央アジアからアヴァール族がバルカン半島に遷って来るが、その混乱に引き込まれるようにスラヴ族がバルカン半島に移住し、住民のスラヴ化が進んだ。主にビザンツ帝国からの宣教活動でこのスラヴ族はキリスト教徒になった。
 1071年、ビザンツ帝国が小アジアで中央アジア起源のトルコ人王朝であるセルジューク朝に敗れ弱体化すると、バルカン半島のスラヴ人たちは自立を図り、豪族の勢力争いの末セルビア人のデュクリャ公国などが独立する。上の1077年というのはローマ教皇に王として認められた年であるが、バルカン半島は同時代に始まった十字軍と同様に、ローマ教皇(カトリック)とビザンツ帝国(ギリシャ正教)の微妙な競合関係に影響されていた。
 1360年、セルビア王国の分裂によって、モンテネグロにはバルシッチ朝のもとツェタ公国が成立する。しかし小アジアから進出したトルコ人のオスマン帝国が1459年にセルビア王国を属国にすると、ツェタ公国もオスマン帝国の属国となった。だが山がちの難所で旨みの少ないこの地にオスマン帝国の直接支配が及ぶことはほとんど無く、イスラム教徒の支配を潔しとしないセルビア人が逃げ込んだ。この辺りがセルビアとモンテネグロを分かつ始まりになっているようだ。
 1528年、ギリシャ正教のチェティニエ主教を形式的に戴くことでモンテネグロの氏族は連合し、モンテネグロ「国家」が成立する。「ヴラディカ」という称号を名乗った主教はオスマン帝国に対する抵抗運動の先頭に立った。この地位は1697年以降はペトロヴィッチ家のおじ・甥による世襲となった(聖職者は結婚が許されないため)。

 オスマン帝国の支配体制が緩んだ18世紀半ばには、モンテネグロはほぼ独立状態にあった。一方コトル湾など沿岸部は上述のようにヴェネツィア共和国の支配下にあり、ヴェネツィアが1815年にオーストリアに併合されたのちは1918年までオーストリア支配下に置かれることになる。
 1830年代以降、ペトロヴィッチ家のダニーロ2世は豪族同士の対立を押さえ込んで、モンテネグロに近代的意味での国家樹立に成功する。しかし反発も大きく、1860年にダニーロは暗殺された。その跡を継いだのが甥のニコラ1世で、専制統治によってモンテネグロの近代化に努め、ロシアに倣った軍の編成や法律を整備した。
 1877年、バルカン半島のスラヴ民族解放を掲げるロシアとトルコ(オスマン帝国)の間で戦争が勃発すると、モンテネグロはロシア側に加担した。戦争はロシアの大勝に終わり、翌年モンテネグロはヨーロッパ列強から正式な独立を認められた。こうした経緯からモンテネグロは極めて親露的であり、1904年の日露戦争の際は日本への宣戦布告をロシアに打診している。
 この時代、倍増した人口を養うだけの産業に欠けるモンテネグロから、アメリカなど外国へ移住する者も多かった。また隣国セルビアの影響でバルカン半島のスラヴ民族統合を主張する南(ユーゴ)スラヴ主義が台頭、モンテネグロの内政の不安定要因となった。1910年に即位50年を祝ったニコラ1世は王を名乗る。

 1912年にバルカン諸国と連合したモンテネグロはトルコに戦争を仕掛け(バルカン戦争)、アルバニア北部のシュコダルを占領する。しかし親露的なモンテネグロの拡大とセルビアのアドリア海進出を嫌ったオーストリアは強硬に反対し、アルバニアの独立が決まった。この結果に威信を失った国王は、ロシアの圧力もあってセルビアとの国家連合樹立交渉を始める。
 一方でこの戦争はオーストリア及びそれを支援するドイツと、ロシアとの間のバルカン半島をめぐる対立を決定的なものとした。そして1914年、第一次世界大戦が勃発する。セルビアとの連合を交渉中だったモンテネグロは即座に、セルビアを支援するロシアに味方し連合国側に参戦した。しかし1916年に独墺連合軍はセルビア全土を占領、ついでモンテネグロをも占領した。国王は亡命しこの占領は1918年の独墺敗戦まで続いた。
 終戦後、国王派の反対をよそにモンテネグロ議会は戦勝国の列に加わったセルビアとの国家連合を決定、セルビア主導で樹立された連邦国家ユーゴスラヴィア(この国名は1929年以降)に参加することになった。
 ユーゴスラヴィアがドイツとイタリアに占領された第二次世界大戦中(1941年)、イタリアはペトロヴィッチ家を復活させてモンテネグロを独立国としたが(イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世の妃はニコラの娘)、イタリア・ドイツ敗北後にユーゴスラヴィアは共産党パルチザンによって解放されてチトー大統領率いるユーゴスラヴィア連邦が復活し、この独立モンテネグロ(実態は傀儡だが)は短命に終わった。

 1980年のチトー大統領の死去、そして80年代末の東西冷戦構造の終結は、モザイク状の連邦国家であるユーゴスラヴィアにも影響を及ぼした。1991年にはスロヴェニア、クロアチア、マケドニアが連邦から独立、さらに翌年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナもこれに続いた。しかしモンテネグロは連邦に留まり、セルビアと新ユーゴスラヴィア連邦を形成した。旧ユーゴでの激しい民族紛争でもモンテネグロは一貫してセルビアを支持し、セルビアと共に国連による経済制裁を受ける。
 一方で1991年にモンテネグロ首相に就任したミロ・ジュカノヴィッチは、連邦内にありながらセルビアと一定の距離を保とうとした。セルビアと同じディナールではなく、闇市場で流通していたドイツ・マルクを正式な国内通貨とし、2002年のユーロ導入後はユーロに切り替えており、セルビアのコソヴォ自治区と共に、ヨーロッパ連合(EU)の外にありながらユーロを正式通貨としている。なお2006年には1913年以来となる独自の切手発行も決まっている。
 1999年、セルビア共和国コソヴォ自治区でアルバニア人とセルビア軍との衝突が激化し大量の難民が出ると、北大西洋条約機構(NATO)軍は人道的介入と称しセルビアを空爆したが、この問題への無関係を主張したモンテネグロも空爆対象となった。セルビア民族主義を煽っていた同国のミロシェヴィッチ政権は2000年に倒された。
 2003年、EUからの圧力もあってモンテネグロはセルビアとのユーゴスラヴィア連邦を解消、国名をセルビア・モンテネグロとする緩やかな国家連合に移行した。この際モンテネグロは3年間独立を凍結する合意がなされ、それが明けた後の今回の国民投票となった。既にセルビア正教会とは別のモンテネグロ正教会が復活し、2004年には独自の国歌と国旗を復活させている。また2005年には旧ユーゴ内戦中にモンテネグロ兵がクロアチア攻撃に参加したことを謝罪し、同国に(多分に象徴的な意味合いだが)賠償金を支払った。
 モンテネグロはボーキサイト鉱山などがあるものの産業に乏しく、国内総生産の15%はアドリア海での観光業によるものである。国連による経済制裁時代はイタリアなどとの闇交易による収入も大きく、ジュカノヴィッチ首相はじめ閣僚数名が人身売買や密売に関与した疑惑が噂されている。
 





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007年05月21日 03時31分34秒
コメント(6) | コメントを書く
[ヨーロッパ・EU] カテゴリの最新記事


PR

フリーページ

お気に入りブログ

コメント新着

背番号のないエース0829@ 小室哲哉 「安室奈美恵 Never End」に、上記の内容…
ミサキ@ Re:メンテ(10/03) 初めてブログを拝見しました。貴重な内容…

カテゴリ


© Rakuten Group, Inc.