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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2006年12月03日
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カテゴリ:西アジア・トルコ
(引用開始)
<アジア大会>開会式 豪華演出のショーで資金力示す
2006年12月2日(土) 12時20分 毎日新聞
 【ドーハ来住哲司】1日夜(日本時間2日未明)に当地のハリファ競技場で約4万人の観衆を集め約3時間半にわたって行われたアジア大会開会式。聖火台には、広島市をはじめ過去のアジア大会開催地や中東諸国など15カ国・地域の22都市を回った火がともり、15日間にわたり燃え続ける。開会式のアトラクションは、「カタールの歴史・文化を支えた砂漠と海の合体」と「平和のアピール」をテーマに繰り広げられた。
 乾燥した中東地域には珍しく、強風と時折激しい雨が降り注ぐ中、アトラクションでは「男性が真珠を探しに、帆船で航海に出る」との設定の物語が演じられた。日本、インド、カンボジアなどアジア各地の民族舞踊や、64頭の馬にアラブの民族衣装を着た男たちが乗って走るパフォーマンスなどが披露された。バックスタンド側一面に設置した大型スクリーンを背景に、豪華な演出のショーは2時間近く続いた。(中略)
 イスラム圏の国・地域選手団の中には頭から衣をかぶった女性の姿も目立ち、信仰を保ちながらも競技スポーツへの参加を果たした女性が増えていることを印象づけた。(中略)
 聖火リレーの最終点火者は、ハマド首長の息子のモハメド王子。アラブの古代天体観測用機器を模した巨大な円形の点火台に火をともすと、光線が飛び交い、競技場外にある高さ約320メートルのスポーツシティータワーの聖火台に火がついた。
 華麗、壮大な演出は、オイルマネーによるカタールの潤沢な資金力をも印象づけた。
 ○…聖火リレーの最終点火者は、カタールのハマド首長の息子で、馬術選手の18歳のモハメド王子。競技場内でカタールの有名選手たちがリレーした後、民族衣装を着て馬にまたがった王子がトーチを受け取り、スタンドにしつらえた23度のこう配のスロープを馬で駆け上がった。途中、雨でぬれた斜面に馬がバランスを崩しかけたが、何とか上り切り、点火台に火をつけた。(以下略)
(引用終了)


 へえ、アジア大会ねえ・・・・。そんなのもあったなあ。すっかり忘れていた。
 そういえば「ヨーロッパ大会」というの聞いたことがないが、一体となるのが自明のヨーロッパに比べ、他者(ヨーロッパ人)に創作された概念である「アジア」は、その一体感を得るためにはこういう大会も必要なんだろうか、と思ってしまう。旧ソ連の中央アジア諸国が加わったのに対し、「アジア」にあるグルジア、トルコ、アゼルバイジャン、アルメニア、イスラエル、キプロスは参加してないですね(イスラエルは「アラブ・ボイコット」が大きいが)。
 つうか日本で「アジア」っていう場合、自明のこととしてせいぜいインドまで、下手すると東アジアのみになってしまうと思うんだが、アジアって元々今のトルコ、しかも地中海岸に限った地域名称だったんですよ。それについては過去に日記に書いたので、今回はパス。
 代わってちょろちょろっと調べたカタールの歴史。

・・・・・・・
 カタール(原語であるアラビア語に忠実に発音すると「カタル」らしいのだが、なんだか病名みたいなのでここでは慣例に従う)はペルシア湾に面する面積1万平方キロ余(秋田県ほど)、人口80万余(福井県ほど)の国である。その国土はアラビア半島(サウジアラビア)から北側のペルシア湾に向かって突き出した南北180km、東西80km程の半島と小島で、海を挟んでバハレーンやアラブ首長国連邦と接している。この二国とはカタールを結ぶ長大な橋とリニア線の建設プロジェクトが進行中である。
 国内最高点が110mという平坦な国土はほとんどが砂漠で、時に高さ40mに達する砂丘もある。こうした国土ゆえに農業にはほとんど期待できず、農地は国土の0.4%に過ぎない。陸地が不毛な反面、海は古来さまざまな富をもたらしてきた。珊瑚礁が広がる沿岸には多様な魚がいて漁業が盛んで(鯨やイルカ、ウミガメもいるが漁業の対象ではない)、長らくこの地の特産品であった真珠貝も生息している。
 そしてカタールの富の最たるものが、現代人の生活に欠かせない石油と天然ガスである。鉱物資源が輸出総額の8割を占めており、日本が最大の輸出相手国となっている。石油は日産99万バレルで全世界シェアの1.2%に過ぎないとはいえ、この国に莫大な富をもたらしていることは間違いない。カタールの一人当たり国内総生産は4万ドル弱にも達し、社会福祉制度が完備しており教育費や医療費は無料である。人口30万の首都ドーハには現代的な建築物が立ち並び、400haの巨大人工島(ザ・パール)や巨大旅客機エアバスA380型機導入に備えた国際ハブ空港が建設中である。

 地下資源産業に従事させるため、カタールはイランやパキスタン、バングラデシュ、インド、スーダンなどから多くの労働者を受け入れている。上に「カタールの人口80万余」と書いたが、そのうち70万人ほどは外国人労働者であり、「生粋の」カタール人(アラブ人)は総人口の15%ほどに過ぎない。公用語はアラビア語であるが、実際には人口の6割がペルシア語やウルドゥ語を母語としており、英語が共通語になっている。外国人労働者を除いて計算すれば、カタールはルクセンブルクを抜いて世界で最も豊かな国であると言われている。
 石油に依存するカタールだが、「石油後」を見越して(ただしカタールの石油可採年数はあと40年あるそうだが)天然ガスの開発を進めると共に、金融業や教育研究、さらに観光誘致に莫大な投資をしている。観光の目玉は巨大建築物、ゴルフ、そして競馬、ラクダ競技、鷹狩といった砂漠遊牧民体験といったところだろうか。もっとも、イスラムの教えに則って厳しいインターネット規制があり、ヤフー・グループのサイトなどは見られないとのことだが。
 豊富な資金を背景にスポーツ振興にも力を入れており、サッカー国内リーグに有名選手を招いたり、世界的な自転車競技大会を開催するなどしている。今回のアジア大会開催もその一環であるが、さらにオリンピック招致も目指す。日本ではサッカー日本代表の「ドーハの悲劇」(1993年)が有名ですね。

 カタールには石器時代に狩猟採集民が住んでいたことが分かっているが、紀元前5000年頃から気候の乾燥化が進み、辺りは一面の砂漠となった。海岸や島嶼では、この地の特産品である真珠や貝紫を採取するために営まれた青銅器時代の集落や、インドと中近東を結ぶ交易船(ダウ船)が停泊した古代・中世港湾の遺跡がいくつか発見されているものの、そうした例外を除けば遺跡はほとんど見られず、長らくカタールは砂漠の遊牧民ベドウィンが時々立ち寄るのみの地となっていたらしい。
 16世紀にインド洋交易に乱入したポルトガル人はペルシア湾岸に多くの要塞を築いているが、カタールには全く残されていないことからも、重要度が低かったことが窺える。なお628年にはイスラム教が及んでこの地の少ない住民もイスラム教徒になっている。
 1760年頃、ベドウィンの一部族アル・サーニ氏がカタール北西部に移住し、同じくクウェート辺りから移ってきたベドウィンのアル・ハリーファ氏と抗争を繰り広げる。アル・ハリーファ氏が1783年にカタール沖の島・バハレーンを征服してカタール北部を支配したのに対し、カタール東岸にあり当時は一寒村に過ぎなかったドーハを根拠地とするアル・サーニ氏は、真珠採取の中心地ズバラをアル・ハリーファ氏から奪って勢力を拡大した。アル・サーニ氏は真珠利権を狙ったペルシア(カージャール朝)やオマーン、さらにはアラブ人海賊の攻撃も撃退した。この建国は1822年とされている。

 1867年、カタールの支配を巡って再びアル・サーニ氏とアル・ハリーファ氏との間で衝突が起きた。アル・サーニ氏はバハレーン攻撃に失敗したものの、当時インド支配を確立しペルシア湾を重視し始めていたイギリスがこの抗争に介入する。アル・サーニ氏と保護協定を結んだイギリスの圧力によってアル・ハリーファ氏はカタール支配を放棄し、バハレーンの支配者として現在に至る。ここにアル・サーニ氏によるカタール統一が完成した。
 イギリスのペルシア湾進出に対抗して、イラクを支配するオスマン(トルコ)帝国もそれまで半ば放置していたペルシア湾の経営に乗り出した。オスマン帝国はカタールに軍を送り、ドーハにも部隊が駐留した。オスマン帝国の容喙に対抗するため、アル・サーニ氏は当時アラビア半島に勢力を持っていたイスラム教ワッハーブ派(スンニ派の一派で、イスラム原理主義運動の先駆)に接近した。
 オスマン帝国やワッハーブ派の影響力を排除するため、イギリスは1913年に再び介入した。第一次世界大戦の勃発によりイラクがイギリスとトルコの戦場となると、トルコ軍は1916年にカタールから撤退し、カタールはイギリスの保護領となった。イギリスがカタールに自治を認め防衛の援助をする代わりに、カタールは他の首長国との抗争が禁じられ外交一切はイギリスが行うと定められた。
 不毛の地であるカタールは特産品である真珠の輸出に依存していたが、1920年代に日本で御木本幸吉が真珠の養殖に成功すると世界の真珠価格が大暴落、カタール経済は大打撃を受け、移住するものが相次いだ。この事態にカタールはやはりペルシア湾の特産品である石油に目をつけ、1935年にイギリスなど西欧資本の石油会社に採掘を許可、同社の調査により1939年にカタールでも良質な油田が発見された。石油の本格的輸出は第二次世界大戦後の1949年に始まり、カタールには莫大なオイル・マネーが流れ込むことになる。

 イギリスはイラクやインドの独立を許したのちも、石油権益などの理由からカタールを保護領としていたが、1968 年にスエズ運河以東からの撤収を宣言、ペルシア湾岸の保護領を全て放棄した。これら旧保護領はアラブ首長国連合の設立を協議したが、カタールとバハレーンは参加を拒否し、同年9月3日を以って独立した。
 1972年に父親を逐って首長(エミール)位についたハリーファ首長は、1974年に西欧企業の支配下にあったカタールの油田を完全国有化(中東では最初の例)して国家による産業振興に努める一方、絶対君主制はそのまま維持された。1981年にはイラン・イラク戦争で不安定化するペルシア湾岸情勢に対応して、サウジアラビアなどと共に湾岸協力会議を設立している。
 1990年にイラクが湾岸協力会議の加盟国クウェートに侵攻すると、カタールはアメリカに協力してイラク包囲網に加わっている。以後カタールは親米路線をとり、アラブの宿敵とされていたイスラエルとも実利的な理由から接触、イスラエルはカタールに常駐の貿易代表部を置いている。1998年にはアメリカ中央軍司令部がカタールに移転したが、2003年のイラク戦争の際にもアメリカ軍の作戦司令部となっている。
 1995年、絶対君主制を続けるハリーファ首長はクーデターにより息子のハマドに逐われた。ハマド首長は民主化を進め、2003年に憲法が制定され立憲君主制となり、男女共に参政権が認められた。もっとも、首長の権限は依然強いようである。1996年に設立され先日開局10周年を迎えた放送局「アル・ジャジーラ」は、アフガニスタンやイラクでの独自報道で世界的に注目されたが、首長の資金援助を受けている。
 最近の事件としては、カタールに亡命していたチェチェン独立派の元大統領が2004年に爆殺される事件が起き、カタール当局がロシア人3人を逮捕したが、ロシア側の抗議により釈放されている。また今年10月チュニジア政府は、「アル・ジャジーラ」が同国反政府勢力の宣伝を垂れ流している、としてカタールとの外交関係を断絶した。





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最終更新日  2006年12月05日 01時17分44秒
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