【 江戸切絵図歩きめぐり 第44回 】 銀座
2024年03月22日(金)快晴今日は雲ひとつない快晴だが、予報によると東京では明日からしばらく曇天・雨天が続くらしい。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区銀座1~4丁目に当たる地区。08:55 三吉橋、【 江戸切絵図歩きめぐり 第44回 】を歩き始める。切絵図に「白魚屋敷」とあるのは、将軍家に白魚等の小魚を献上する白魚役12人が、享保13年(1728年)に拝領した屋敷地。京橋川に架かる「白魚橋」の名前は、白魚屋敷に由来する。また、付近の掘割の荷揚場は白魚河岸と呼ばれた。「歌舞伎座」が建つ場所は、切絵図には「松平和泉守」とある。これは三河国西尾藩松平家(譜代)の中屋敷。近くの木挽町四・五丁目(現在の中央区銀座5・6丁目)には芝居小屋の山村座・河原崎座・森田座があった。歌舞伎座が現在地に開設されたのは、明治22年(1889年)のこと。寛文3年(1663年)河原崎座は森田座に吸収合併され、正徳4年(1714年)山村座は絵島事件に連座して廃座になった。天保14年(1843年)森田座(森田座は休座中で、実際には河原崎座が引越)は天保の改革に伴い猿若町(現在の台東区浅草)へ移転させられた。切絵図に「三十間堀川」が描かれている。三十間堀川は、三ツ橋の合流地点から汐留川までをつなぐ掘割。慶長17年(1612年)に開削された。堀名の由来は、堀幅が約30間(約55m)あったことによる。戦後の瓦礫処理のため、1949年までに埋め立てられた。切絵図の三十間堀川に「紀伊国橋」が架かっている。橋名の由来は、東詰に紀伊徳川家の蔵屋敷があったことによる。寛永9年(1632年)の江戸絵図では、紀伊国橋の東側に「紀伊大納言様 御蔵屋敷」とある。文政12~13年(1829~30年)蔵屋敷は南小田原町(現在の中央区築地)に移転。銀座中央通りに「銀座発祥の地」碑があり、切絵図には「新両替町」「銀座町トモ云」とある。慶長17年(1612年)幕府は当地に銀座役所を設置。金座があった本両替町(現在の中央区日本橋本石町)に対し、銀座は新両替町と名付けられた。銀座役人の不正事件が多発したため、寛政12年(1800年)役人の粛清と役所の蛎殻町(現在の中央区日本橋人形町)移転が行われた。切絵図に「観世大夫(だゆう)」とある。寛永10年(1633年)能楽の観世座が幕府から拝領した屋敷地。座頭(ざがしら)が代々観世大夫を称した。明治維新で屋敷地を返上するまで230年以上、観世座は当地を本拠地とした。切絵図の比丘尼橋南詰に「西紺屋町」「立賣ト云」とある。立売はこの地区の通称で、店舗を持たない立売商人が集まっていた。09:35 数寄屋橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第44回 】はここで終わり。三吉橋 → 数寄屋橋交差点 : 3.8 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 130.0 km )