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遊心六中記

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2018.04.14
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カテゴリ:観照
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
この景色は三条大橋東詰南側から撮ったものです。(2018年4月時点)
京都の鴨川に架かる三条大橋は、江戸時代には東海道五十三次の終点でした。
 
これは良く知られた歌川広重が描いた「三条大橋」です。江戸の日本橋を振り出しに、「東海道五拾三次大尾 京師」にやっと着いた!・・・・つまり、京都が終点で上がり(大尾)ということでしょう。ウィキペディアから引用しました。(資料1)
実際の幹線道路としては、この三条を経由して当時の大坂までの街道が利用されたようですが。

もう、数え切れないほどこの三条大橋を往来してきているのですが、単に通過点として通り過ぎるだけで、じっくりとこの橋と周辺を観察したことがありません。一度はトライしてみようと思っていたのです。そこで、三条大橋細見という視点で、ちょっとマニアックな紹介をいたします。御用とお急ぎでない方はお付き合いください。

現在の三条大橋と広重描く三条大橋。今や高いビル群が洛中の景観を遮っていて、それに慣れっこになっていて普段は意識しません。しかし広重の絵を見ると、かつては北西に連なる山並みがスッキリと三条大橋に辿り着くと見えたのでしょう。船岡山(これは眺められたのか、無理だったか?)の背景に、高尾山から愛宕山、北方向に鷹峯あたりが遠望できたのでしょうね。まさに京都盆地の景観を感じることができたのだろうと想像します。
広重は寛政9年(1797)に生まれ、安政5年9月6日(1858.10.12)に没した浮世絵師です(資料2)
その広重誕生よりも17年早く『都名所図会』といういわば観光ガイドブックが安永9年(1780)に出版されています。
 
それには、既に三条大橋が見開き2ページで描かれています。こちらも引用します。(資料3)
この頃には既に鴨川には護岸の石垣が築かれていて、大橋西詰の北側には、三条河原に降りるための階段があったことがわかります。その場所は今も構造は違うものの河原に降りられるようになっています。

三条大橋の東詰から眺めていきましょう。
 
南側には、「花回廊」と刻された平成11年(1999)6月建立の石碑があります。
丁度この前が、京阪電車の三条駅、地階からの南西側出入口になっています。
 
                    石碑の北側に、この銘板があります。
平安建都1200年を契機に「京の川づくり」が着手され、その一環として鴨川東岸の三条から七条の間を「花の回廊」として京都府と京都市が一緒になって整備したのだそうです。この鴨川沿いの散策路に公募による俳句や短歌の碑が設置されることになったのです。
花回廊の碑の前の小さな碑がその一例です。
  歌碑 我が心きよめ流るる鴨川は優しき母のまなざしに似て 堀井由紀子 (右)
  句碑 かもがわにどこからきたのゆりかもめ       (左)判読できず。確認課題です。
  
 
東詰の北側の景色です。京阪電車三条駅北西側の出入口が対応しています。
 
出入口寄り、柳の樹下に「京の川づくり」の銘板が立っています。
 
南隣りに、京都市が「駅伝発祥の地」であり、この三条大橋が出発地点だということを示す記念碑があります。駅伝発祥100年記念として建立されたようです。
「我が国、最初の駅伝は、
 奠都50周年記念大博覧会『東海道駅伝徒歩競走』が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。」(説明碑文転記)
 大橋東詰北側に駒札が立っています。 
 
 
 


駒札を部分拡大してみました。この駒札にある説明について、三条大橋を細見していくとその証拠が順次見つかってきます。
そこで、一旦三条大橋を西詰北側に行って見ましょう。
この傍にある建物には現在スターバックスというお店が営業しています。このお店を見慣れてしまったので、以前には何のお店だったか忘れてしまいました。
 
そのスタバ前から橋の欄干側を見ると、この石柱が立っています。
 
この円柱には、「天正十七年 津国御影」と陰刻されています。御影という文字の右側に「七月」、左側に「吉日」と刻されています。この刻銘から、この石材が現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかります。(傍の駒札より)これはこの三条大橋に使われていた石材の遺物です。

脇道に逸れますが、京都国立博物館の西の庭の南西隅には、「津国御影天正十七年五月吉日」の刻銘があり、天正十七年(1589)、豊臣秀吉が鴨川に架けた五条大橋の橋脚、桁の石材が一部保存されています。また、刻銘「天正十七年津国御影七月吉日」入りで五条大橋と三条大橋に使われた石柱も保存されています。(資料4)

 再び、東詰南側に戻ります。
これは大橋の南側高欄の東端の宝珠柱です。
 
この擬宝珠を北側から観察しますと、刻銘が見えます。
この刻銘の内容が上記の『都名所図会』に原文のまま引用されています。(資料5)

「洛陽三条之橋、至後代化度往還人、盤石之礎入地五尋、切石之柱六十三本、蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代、奉増田右衛門尉長盛造之」

 洛陽三条の橋は後代に至るも往還人を化度し、盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十五本なり。蓋(けだ)し日域に於いては石柱の濫觴なり。天正十八年正月日、豊臣初之御代に増田右衛門尉長盛奉じて之を造る。

(京都・三条のこの橋は後の時代までも往来する人の助けとなる。非常に安定し揺るぎない基礎は地中5尋(ヒロ)の深さがあり、石材の柱を65本使っている。おそらくは日本において、橋に石柱を使う第一号である。天正18年正月、豊臣初代(=秀吉)の時に、増田長盛が奉行となりこれを建造した。)拙訳するとこんな意味合いでしょう。誤訳があるかも。

「尋」という長さは、「日本の慣習的な長さの単位。一尋は、両手を左右にまっすぐに広げたときの指先から指先までの長さ、水深をいうのに用いた。明治5年(1872)から一尋は曲尺の六尺、約1.8mとなる。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。これに従えば、9m近く川底を掘り込み基礎造りをしたことになりますので、まさに大工事だったのでしょう。

三条の橋がいつごろから創設されたかは不明であり、上掲駒札に記されていますが、室町時代前期には既に架橋されていたと考えられています。秀吉の命による三条の橋の大改造は、京都の人々には大歓迎されたことでしょう。秀吉の人気上昇ということになったのでは・・・・。

天正2年(1574)3月に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる、狩野永徳筆『洛中洛外図』(国宝・上杉本)を米沢市上杉博物館発行の大型本で確認してみたところ、四条・五条の橋は描かれていますが、三条の橋の位置は金雲がたなびき、橋は描かれていません。四条や五条の橋と比べると、この頃は簡素な橋で画家が魅力を感じるほどのものでは無かったということでしょう。代わりに粟田口が描かれています。こちらが京への入口として当時は良く知られていたのでしょう。あるいは東国への街道になる三条には意図的に簡素な橋しか造らなかったのかも・・・・ということも考えられます。

1790年時点で、秀吉の命令を受けて建造された三条大橋の石柱はそのまま使用され存続していたのでしょうか。図会に描かれた橋脚の感じが石柱のイメージを与えます。
図会は「欄干には柴銅(からかね)の擬宝珠十八本ありて、悉く銘を刻む」(資料5)と記しています。

京都府観光ガイドは「高欄の擬宝珠14個はその当時のもの」と説明しています。(資料6)
高欄を含め橋の木造部分が取り替えられたり修復されたりしても、擬宝珠はそのまま利用され続けたということでしょう。そして現在は昭和に新造されたものが一部混用されているのです。(資料7)

  
東詰の北側に、東岸に下る階段があります。降りてみます。
 鴨川の上流側の眺め
東岸は舗装されていて、河岸沿いの散歩が自由にできますし、ここを自転車で往来している人も見かけます。川端通となっている堤防の側壁は石垣となっています。この石垣はそれほど古い年代物ではなさそうです。コンクリート壁面もあります。
 
大橋の下を見ると、現代建築そのものです。ちょっと意識的に観察していたので、初めて銘板のようなものが嵌め込まれているのに気づきました。
 
これがそれです。
「三條大橋架替工事 施工昭和24年8月 竣工昭和25年3月」の刻銘が読み取れます。
上掲でご紹介した駒札に記載の改造時期の証拠をここで確認できます。秀吉が造らせた石材利用の橋脚・桁による三条大橋は、その後元禄・明治・大正と改造を経た上で、昭和25年(1950)の改造により、現在の姿の大橋になったそうです。(資料7)
現在の橋は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で改築された木橋の面影を残すという意図で、擬宝珠高欄付きの木造橋の姿になっています。(資料6)


現在の三条大橋は、長さ74m、幅15.5mです。(駒札、資料7)

最初に引用した2枚の絵がこの大橋を写実的に描いているとすると、対比的にみて、いくつかの違いがあります。橋脚の数が違います。現在の大橋は写真を撮った角度の関係で最東端の1箇所が写っていませんので、それをカウントすると、8箇所の鉄筋コンクリート製橋脚で橋を支えています。
時代によって鴨川の川幅が変化しているのは事実です。ネット検索で得た情報によれば、増田長盛が建造した石柱橋は、長さ101m、幅7mだったそうです(資料8,9)

『都名所図会』に載る竹原春朝斎信繁が描く三条大橋は7箇所の橋脚が描き込まれています。江戸時代には三条大橋は江戸幕府が管理する公儀橋でしたので、鴨川などの氾濫で橋が壊れたりすると、すぐに修復するということが繰り返されたのです。1780年時点で春朝斎が描いた三条大橋は、秀吉以後、既に16回の架け替えが行われたともいわれていた時代になります。(資料8)
一方広重の絵には、10箇所の橋脚が描かれています。橋脚の描き方も違います。石材円柱のように思えない印象なのですが、どうなのか・・・・・。構造上の強度の問題で、橋脚間の距離が違うのかも知れません。

天正十七年の刻銘のある石柱はいつの頃に取り替えられたものでしょうか。このあたりの事実についての探求課題が残りました。江戸時代に取り替えられたなら、遺物として残さず転用材にしていたでしょうし・・・。明治以降でしょうか? それなら橋の付け替えはあっても、石の橋脚や桁はそのまま継承されたことになるのですが・・・・・。ウ~~ン。

 
        
大橋の下で橋脚と桁を撮りました。鉄筋コンクリート製の現代建築工法によるものです。橋上では木造橋の面影が鴨川の流れと遠望する山並みとのコラボレーションで風情を添えてくれます。ここを眺めると機能美は感じますが、三条大橋の感興は沸きません。
 
下から大橋を見上げると、まさに和洋折衷の美というところです。

  
一つ不思議なものが目に止まりました。これです。
東岸の側面と川端通の堤の側面に、色の違う石板を交互に縦一列につないでいる箇所が目に止まったのです。石積みの壁面上に意図的に貼り付けてあるようです。増水時に川水の水位を簡易に定点観測で目測できるようにしてあるのでしょうか。そんな連想をしてしまいました。

余談です。
三条大橋を石柱使用の土木工事で丈夫な橋に改造させて人々にも恩恵を与え、己の人気を高める行動を取った秀吉が、その一方でこの三条河原を処刑の場所として使っています。関白職を譲った秀次を高野山に追い切腹させる一方で、秀次の妻妾当一族を残虐にこの三条河原で処刑したのです。人々の葬られた塚は後に荒廃します。高瀬川を開削した角倉了以が、それを知り、この三条大橋のすぐ傍に「瑞泉寺」を建立し、秀次とその一族の霊を弔うという行為を取っています。
大盗賊で有名な石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたのも三条河原。
関ヶ原の戦いで西軍首脳とみなされた石田三成・小西行長・安国寺恵瓊等は六条河原で斬首刑となった後、三条河原で晒し首になっています。長宗我部盛親もまた六条河原で斬首され、三条橋に晒されたとか。新選組の近藤勇は板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられたあと、首が運ばれ三条河原で晒し首となっています。

そろそろ、三条大橋の橋上に戻りましょう。
長年気になっていた高欄の擬宝珠を立ち止まって眺めることに・・・・・。

つづく

参照資料
1) ​東海道五十三次​  :ウィキペディア
2)​ 歌川広重​  :ウィキペディア
3) ​都名所図会 6巻. [1] 秋里籬島 著[他] ​:「国立国会図書館デジタルコレクション」
4) ​西の庭​  :「京都国立博物館」
5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p76
6) ​三条大橋​ :「京都府観光ガイド」
7) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂
8) ​三条大橋・三条河原(京都市中京区-左京区・東山区)​:「京都風光」
9) ​三条大橋​  :「河原町商店街振興組合」

補遺
[関西歴史事件簿」三条河原の公開処刑(上) 鴨川真っ赤に、「秀吉」残虐公開処刑の全貌…秀次「生首」前で一族39人惨殺、幼児・姫君も容赦なく​:「産経WEST」
瑞泉寺の由来​  :「瑞泉寺」
釜茹で​     :ウィキペディア
石川五右衛門~戦国時代のヒーローで釜ゆでの刑となった稀代の大泥棒とは?​ 
         :「戦国武将列伝Ω」
石田三成​  :「コトバンク」
小西行長​  :「コトバンク」
安国寺恵瓊 ​:「コロバンク」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2018.04.17 18:23:48
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