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カテゴリ:探訪
円山公園の南側に大谷祖廟(東本願寺)があります。その参道は東西方向で、東端に大谷祖廟が位置し、参道の西端は八坂神社の南楼楼門に向かう南北の道に繋がっています。 参道の入口に「大谷御廟」という大きな石標が立っています。 東本願寺と渉成園は幾度か訪れています。しかし、この大谷祖廟がここに在ることを知っていて、八坂神社や円山公園まで来る機会が幾度もありながら、訪れたことがありませんでした。一度は拝見しておこうと、11月に出かけました。そのまとめを兼ねたご紹介です。 参道脇の石灯籠。竿の正面に「大谷」の文字。 緩やかな石段の先に「総門(表唐門)」が見えてきます。 檜皮葺きで切妻と唐破風を組み合わせた屋根の四脚門です。 2010(平成22)年に修復工事が行われた際に棟札が発見され、1862(文久2)年に新築されたことが明らかになったそうです。(資料1) 総門前の右側に、この案内板が設置されています。 この「大谷祖廟」は、1670(寬文10)年に東本願寺の琢如上人(第14代)が、親鸞聖人と教如・宣如両上人の墳墓をこの地に移し「大谷御坊」と称されたのが始まりで、1701(元禄14)年に墳墓の改装と本堂の建立が行われたそうです。 明治以降に名称が幾度か変更され、1981(昭和56)年「大谷祖廟」に改称されています。(案内板より) 門を眺めると、その細部に関心が高まります。木鼻はすべてごくシンプルな形です。 まず目に止まるのは前面の控柱の虹梁・頭貫部分です。 大瓶束の両側には菊花の様々な姿が彫刻されています。左右でその姿をそれぞれ変えて彫り込まれ、全体の輪郭は左右対称にみえるような造形になっています。 その下部、頭貫上の蟇股には、龍に乗り笙(しょう)という雅楽器を捧げ持つ人物が彫刻されています。 中央部は唐破風屋根の曲線の垂木に装飾金具が縞模様に列をなしています。経年変化で銅板金具に緑青が吹いたのでしょうか。正面の垂木の先端も覆い金具が同様になっています。 本柱の頭貫上の蟇股は、左右の人物が一緒に舞踏でもしている一瞬をとらえたかの様なシーンです。向かって右の人は左手に瓢を持っているようですが、左の人が右手にしている物が何か不明です。人物の背後は、右には梅の木、左には笹竹が彫刻されているようです。 門扉の幣軸の外側には、草花文の彫刻で埋め尽くされています。表唐門に華麗さを加えている景色です。 総門を入ると、右手に細長い建物の側壁が美しい。上部は白壁、下半分が海鼠壁になっています。 防火と美観を兼ね備えた壁面の美観です。 ここで、まず大谷祖廟の境内図を引用しご紹介します。 ダウンロードできるパンフレットから切り出しています。(資料1) 総門の左側にある二層の「太鼓楼」 太鼓楼の屋根の鬼板は調べてみますと、「東六条八藤紋」がレリーフされています。 これは東本願寺大谷家の家紋だそうです。(資料2) また、東本願寺の寺紋は「抱牡丹紋」とのこと。(資料2,3) 太鼓楼の南側から総門を眺めた景色です。 石段を上がって行き、西を見ると、京都市内が見えます。 石庭に連なる南側に手水舎があります。その南側に大谷祖廟事務所の建物があります。 振り返り、東側を眺めると松の木々の向こうに庫裡が位置します。 本堂の側面を眺めつつ、一段高くなった境内に上がりますと、南面する「本堂」前です。 この本堂が上記のとおり1701年に建立された総欅(けやき)造りで、奥行き7間半(約13.6m)、横幅7間(約12.7m)のお堂です。 本尊は阿弥陀像で、安阿弥(仏師快慶)作と伝えられているとか。片山仏とも呼ばれるそうです。(資料1,4) 鳥害除けのためでしょうか、木鼻や蟇股、木組みの部分は金網でカバーされています。 全景を撮るにとどめました。向拝の木鼻は象の頭部が彫り込まれています。 御廟に行くには、本堂の少し南にある緩やかな石段をさらに一段高い境内地に上がることになります。 その前に、石段傍に奉献されたブロンズの灯籠を眺めておきましょう。 火焔宝珠と笠には法輪のレリーフ 火袋には天女像のレリーフ 竿の部分に、宗祖親鸞聖人の大遠忌記念という陽刻が見えます。回忌数が写真では判読不詳。 「御廟」は正面に唐門、両側につづく透かし塀で囲まれています。その前に石造の垣が設けられています。そして、唐門傍には、灯明台があり、左右には献花台が設けてあります。 唐門の正面には、折りたたみ可動式屋根が設営されていますので、唐門の全体像を撮れなかったのが残念です。 この御廟に、石墳が築かれ親鸞聖人の遺骨が納められて、その上に親鸞聖人遺愛の虎石が置かれているそうです。この石が「茶色で虎が伏せているように見えたところから名づけられたものといわれています」(資料1)。この虎石は、親鸞聖人が遷化された善法院で井戸が掘られたときに出て来た石と言います。その石の名に由来するのが、御池通柳馬場上ルの中京区虎石町です。この虎石は、虎石町⇒伏見城⇒宝塔寺(伏見区深草)と移され、1709(宝永6)年にこの大谷祖廟に納められたという変遷をしています。(資料1,4,5)宗祖とともに、本願寺の歴代をはじめ門徒衆の遺骨も納められているそうです。 唐門は豪華に荘厳されています。撮れる範囲で細見してみました。 門扉の上部の欄間には瑞鳥の透かし彫りが見えます。桟唐戸(門扉)の上部の格狭間には五三大割桐紋が透かし彫りで造形され、菱狭間には丁子菱様の文様が嵌め込まれています。桟が格子に組まれ、その中に牡丹のレリーフが取り付けられています。 門柱と框の間には葡萄文の装飾金具、門柱には法輪を中央に幾何学文様を線刻した装飾金具、左右の門柱の外側には、左が滝を登る鯉の意匠、右が獅子の子落としと推測する意匠の装飾金具でそれぞれ荘厳されています。 御廟の石段下から南に歩むと、鐘楼への石段があります。 その石段へ向かう角のところに、「覚信尼公おん文」の碑が建立されています。 石段の先に、鐘楼が見えます。 梵鐘の下帯には草花文がレリーフされ、その上の草ノ間には、一体ずつ相貌を含めて異なる姿の諸仏がレリーフされています。細やかな彫像です。 この鐘楼が大谷祖廟境内地の南端側に位置します。築地塀の南側には、東大谷墓地が広がっています。 御廟に向かう石段と本堂の間の東辺に建立された句碑 (彰如上人25回忌法要記念句碑) 口あいて落花ながむる子は佛 句仏(大谷光演の俳号) 大谷祖廟事務所の建物の一画に休憩所があります。そのそばに、この大きな釜の設備が置かれています。かつてはこれで湯を沸かし、参拝者を茶でもてなしたのでしょうね。 側面に、「元豊通宝」が象られています。調べてみますと、中国・北宋六代・神宗の時代、元豊元年(1078)に始まる鋳銅銭です。(資料6) もう一つの文様は葵紋でもなさそうで不詳です。 本堂の北隣にある「庫裡」 立石の石組み手前の通路を北に進むと、この建物があります。貴賓用の玄関口なのでしょう。 大谷祖廟は、総門までの幅の広い参道は少し「く」の字形に曲折する長いアプローチですが、総門を入った山腹の段状に広がる境内は比較的コンパクトにまとまっている感じがしました。境内地の一番高い上段地に御廟が祀られ、背後に山林を懐いた静けさがありました。行事の時には大勢の門徒衆で賑わうのでしょう。 上掲の境内図に、太鼓楼の東側に「北門」が記されています。 ここから大谷祖廟を退出しました。 「北門」を出て、外から眺めた景色です。 これで探訪記を終わります。 ご覧いただきありがとうございます。 参照資料 1) 大谷祖廟とは :「東本願寺」 大谷祖廟のパンフレットがダウンロードできます。同パンフレットも参照 2) 大谷家 :ウィキペディア 3) K-002 抱き牡丹 (だきぼたん) :「山崎商店」 4) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p213 5) 見真大師遷化之地・善法院跡・法泉寺跡(京都市中京区) :「京都風光」 6) 元豊通宝 :「電脳古銭譜 がんちゃんの古銭のページ」 補遺 雅楽器 :「gakki.com」 大谷祖廟・東大谷(1)、(2) :「仏教宗学研究会」 大谷祖廟 京のスポット :「KYOTOdesign」 法泉寺(京都市左京区) :「京都風光」 大谷光演 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) こちらもご覧いただけるとうれしいです。 スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。 スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。 探訪 [再録] 京都・七条通を歩く -1 東本願寺・西本願寺・興正寺・梅小路公園 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
大谷祖廟に40年近く前に行ったのを、思い出しました
父の納骨で、母をつれて車で行きました 用事を済ませてすぐに帰ったので、どんなところだったのかよく覚えていませんが、今回写真をたくさん見せていただき、立派なところなんだと再確認した次第です 手入れの行き届いたお庭や装飾の施された唐門など、立派なものですね (2018.12.23 09:11:05)
Jobim さん:
記事に書きましたが、私自身今回初めて訪れてみました。 宗派によりそれぞれ趣が異なり、仏教建築・美術的な観点では興味深いものがあります。 『ブッダ最後の旅』では、ブッダの遺骨は8つに分けられ、8つの遺骨のストゥーパが造られたと記されています。それに瓶のストゥーパと灰の塔も造られたと。 親鸞聖人寂滅後、荼毘にふされ、そのご遺骨はいくつに分けられたのでしょう・・・・・。 それは結局、親鸞聖人の御廟がいくつ存在するかということになるのでしょうね。 (2018.12.23 18:17:05) |