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カテゴリ:探訪
先日、JR奈良線の新田駅で下車し、近鉄京都線の大久保駅近くまで用事があって出かけました。その時、新田郵便局の傍で目に止まったのがこの道標です。古風なスタイルなのにまだ真新しい感じの大きな道標、そのギャップに違和感と関心の双方をかき立てられました。そこで要件を済ませてから、この道標の傍まで出向き写真を撮って帰ることに・・・・・。そのご紹介です。 道標の南面には、上部に観音菩薩坐像がレリーフされていて、その下に「右 うぢみち」と刻されています。 自宅でインターネットの地図「Mapion」でこの場所を確認してみました。「広野町東裏」交差点の北東角になります。 手許にある『京の古道を歩く』を参照するとこの道標のある位置は、大和街道の一地点と分かりました。(資料1) 掲載地図(p200-201)から切り出した部分図を引用します。 部分図に赤丸を追記したところがこの道標の位置です。 つまり、この道標から右(東)方向に行けば、宇治に至ります。宇治街道です。 地図を見れば、宇治街道は東裏の東端のT字路から先が府道15号となります。府道15号はこのT字路で左折して南進するルートになっています。 宇治街道を西に進んで来ると、この道標の位置で左折すれば、南に向かい「なら道」つまり大和街道を歩むことになります。 奈良から大和街道を歩み、この道標の分岐に至れば、右(東)は宇治へ、左(北)に進めば京都に至ることになります。「左 京」の下はかな文字での「みち」でしょうか? 豊臣秀吉が宇治川の流れを付け替え、伏見城を築いた時に、その宇治川に豊後橋を架けさせました。そして、南に広がる巨椋池の中に向島から小倉まで縦断する巨椋(小倉)堤を築きます。その堤の上を奈良への最短距離の新しい大和街道にしました。 豊後橋があったところが、現在の伏見区の観月橋です。(資料1) 江戸時代に出版された『都名所図会』には、「巨椋の入江」という項が載っています。 「巨椋の入江は豊後橋の南、向島より渺々たる水面なり。(土人小倉のお池といふ)中に大和街道ありて五十町の堤なり。(夏は蓮花河骨生じて、炎暑を避くるの江なり。冬は水鳥多く集りければ漁猟をなす)」と記されています。 昭和の時代に干拓されて巨椋池が消滅してしまった現在では想像することも難しくなっていますね。 観月橋を経由する道路、つまり新大和街道は現在国道24号と称されています。 国道24号は向島を南東方向に進み、槇島で南進して、現在の国道1号に至り、国道1号と併走する道になります。一方、国道1号との交差点を起点に、大和街道は府道69号に切り替わります。府道69号は槇島、小倉を縦断し、近鉄京都線とほぼ併行に南進していきます。 近鉄京都線伊勢田駅の少し南で、道が分岐しています。 その分岐点が東裏地区の北西角あたりになります。分岐した東側の道路が大和街道だったのです。 大和街道を南下すると、上記した「広野町東裏」交差点で、この道標が立つところです。 かつてこの地点は、交通の要となる場所の一つだったと言えます。 なぜ、この道標が真新しい感じなのか? 道標の北面を見て、理解できました。 平成9年(1997)11月に交通災害事故が起こり、道標が破損したそうです。 そこで、広野三丁目町内会が、平成10年5月にこの道標を再建されたということが刻されています。 オリジナルの道標がたぶんこのスタイルのものだったということでしょう。 重要な役割を果たしてきた古道の歴史の記憶を維持しようとされる思いが伝わってきます。 ご覧いただきありがとうございます。 参照資料 1)『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古書院 p196-208 2)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 補遺 奈良街道(京都府) :ウィキペディア 観月橋 :ウィキペディア 豊後橋 :「コトバンク」 京都府-巨椋池干拓事業- 国内初の国営干拓事業 :「水上の礎」 幻の巨椋池(おぐらいけ) 昭和初期に干拓、大雨で現れた大池の面影 :「月桂冠」 消えた巨椋池の謎 :「淀緑地周辺の散策手帳」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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