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カテゴリ:観照
=== 2022.12.14 ===
14時半頃に、東方向の空を撮りました。 南の空 南西方向の空 === 2022.12.18 === 9時過ぎに、東方向の空を撮りました。 南の空 10時半頃に再び東方向の空を眺めた状態です。 === 2022.12.19 === 11時頃に東方向の空を撮りました。 南の空には雲がありませんでした。 15時45分過ぎには、南の空に雲が浮かんでいました。 さて、『古今和歌集』(資料1)について、雲がたりのつづきです。 手許の本は校注だけですので、雲を詠み込んだついて、校注と大昔学生時代に使った『明解古語辞典 新版』(三省堂)を頼りに、頭に刺激を与えてみる試みです。歌の意味を私なりに解釈してみてご紹介します。No.5に列挙した歌を取り上げて行きます。 逆に、誤解を与えることになるかもしれません。その節にはご教示いただけるとうれしいです。 桜花さきにけらしなあしひきの山のかひより見ゆる白雲 59 この歌の一つ前、第58首に「つらゆき」(紀貫之)とあり、後の第70首は「とものり」(紀友則)と明記されています。それ故この第59首は紀貫之の歌と解せそうです。 古語辞典を引きますと、「かひ」には「峡」の字があてられ、「山と山との間」と説明されています。そして、この歌の該当箇所が例示されています。 (山と山の間に白雲が見える。今頃は桜の花が咲き誇っていることだろうな) 夏の夜はまだよひながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ 166 深養父の作。「百人一首」の項で、歌意の引用と併せて清原深養父が清少納言の祖父ということもご紹介しました。ここではスキップします。 白雲にはねうちかはしとぶかりのかずさへ見ゆる秋のよの月 191 この歌は「よみ人しらず」と明記してあります。「はねうちかわし」は「雁が翼を互いに交えて」と脚注説明があります。(資料1、以下同じ) (秋の夜に月が輝き、白雲に向かって翼を互いに交えつつようにして 黒い雁が飛んでゆく。その数さえ数えられるほどにはっきりと見えることよ) 久方の雲のうへにて見る菊はあまつほしとぞあやまたれける としゆきの朝臣 269 としゆきの朝臣は、巻四・秋歌上の冒頭の歌に藤原敏行朝臣とあり、この人のことでしょう。詞書に「寛平御時、菊の花をよませ給うける」とあり、このとき藤原敏行は権中将蔵人で、殿上人であったそうです。「雲のうへ」という語句を使っていますが脚注を参照すると、雲は比喩的に「宮中」の意味で使われていいるだけのようです。雲とリンクする形で「あまつほし」(天の星)という譬喩が使われています。 (久々に宮中で拝見する菊はまるで天に輝く星かと間違えてしまいそう) 冬ながら空より花のちりくるは雲のあなたは春にやあるらむ きよはらのふかやぶ 330 詞書に「雪のふりけるをよめる」とありますので、花は雪を喩えていることになります。雪が降る空を見上げて、雪空の雲を眺めているのでしょう。 (冬なので空から雪がまるで花が散るように降りてくる。 あの雲の彼方にははや春になっているのではないだろうか) 山高み雲ゐに見ゆるさくら花心の行きてをらぬ日ぞなき 凡河内躬恒 358 (山高く雲の懸かる辺りに桜の花が見える。 その桜の花に私の心が向かわない日はないといえる今日この頃よ) 限りなき雲井のよそにわかるとも人を心におくらさむやは 367 一つ前の歌によみ人しらずと明記されていて、その続きなのでこれも読み人しらずでしょう。「雲井」には、「空のかなた。遙かに隔たった旅の空の意」と脚注がしてあります。実体としての雲の存在ではなくて、空間の隔たりを象徴するだけのようです。 (都を出て遙かに隔たった旅の空へと離れて行ったあの人。 心から送ってあげることができただろうか。いや、行ってほしくなかった・・・) をしむからこひしきものを白雲のたちなむのちはなに心地せむ きのつらゆき 371 「人のうまのはなむけにてよめる」という詞書に対して、「人が旅立ちてゆく選別の宴」と脚注で説明されています。また「をしむから」には「別れを惜しんでいる今から」と。 (別れを惜しんでいる今から早くも恋しさが湧いています。 白雲が立つのを目にした後は、旅ゆくあなたにどんな思いを抱くことでしょう) こんなところで、元に戻ります。 === 2022.12.20 ==== 13時少し前に、南東方向の空を撮りました。 南の空 東方向の空 15:30頃に、再び南の空を撮りました。午前中とは様変わりして雲一杯です。 行雲流水と言いますが、雲も水も留まることなく転変と過ぎゆきます。 この四字一句の由来は何処? ネット検索してみますと、「語源は中国で11世紀後半に活躍した『蘇軾(そしょく)』という文章家が残した『謝民師推官与書(しゃみんしすいかんにあたうるのしょ)』の中で見つけることができます。」と説明されています。(資料2) 禅語としては「柳緑花紅」とともに最もポピュラーな禅語の一つであります。禅語の茶掛としても使われる四字一句のようです。手許の一書には、 「雲のように悠々としかも無心に、また水にも似て無相で、したがって観音菩薩のように時処位に応じてその相を千変万化しつつ無礙自在に生きることである」と説明されます。 さらに、禅者はこの句にもう一つの願いを託すると言います。 「白雲がいつのまにかその形を変え、風のまにまに東へ西へと移動して一つ処に住(とど)まることがないように、また水があるいは瀬となりあるいは淵となりつつも、絶えず流れて住まるところがないように、『一処不住』すなわち無執着で生きたいという願いである」。つまり、「何物にも執着しない、執着を離れる」そうありたいという願いを託する四字一句だそうです。禅宗の修行僧を雲水と呼ぶのは、この行雲流水に由来するとか。(資料3) そういう風に理解すると、凡俗の私にはハードルの高い四字一句・・・・・。 この辺りで、また一区切りといたします。 つづく 参照資料 1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫 2) 「行雲流水」の意味と語源とは? :「TRANS.Biz」 3)『禅語の茶掛 続一行物』 芳賀幸四郎著 淡交社 p87-88 補遺 藤原敏行 :ウィキペディア 「行雲流水(こううんりゅうすい)」の意味と使い方|類語・対義語 :「粋IKI」 「行雲流水」とは?意味と由来、英語表現と類義語[使い方の例文]:「四字熟語の勉強.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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