探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観
南総門を通り抜けると正面には、本殿を初めとする「御社殿」の全景が見えます。その本殿前に、新聞報道でみた「ジャンボ御神矢(ゴシンヤ)」が設置されています。報道された翌日24日に眺めた本殿前の全景です。 このジャンボ御神矢は、境内の竹で作られ、長さ8mです。2024年2月3日の節分まで、本殿前に飾られます。(資料1)初詣に向けた通路が仮説されていました。 この御神矢ですが、「鎌倉時代の元寇の際、亀山上皇が八幡大神に必勝祈願したところ、石清水の社から白羽の鏑矢(カブラヤ)が飛んでいき、その音を台風と勘違いした蒙古軍が退散したという故事にちなんでいる」(資料1)そうです。壮大なイメージ力!! 「石清水八幡宮イラストマップ」(資料2)から切り出した「御社殿」の部分図をまず引用します。南総門は修造中のため残念ながらその姿は全く見えません。本殿・弊殿(ヘイデン)・舞殿(ブデン)・楼門・回廊・竹内社を含む十棟が「御社殿」と総称されています。これらは国宝に指定されています。(資料2)正面に唐破風屋根の前部を持つ楼門があり、その左右に瑞籬と回廊が巡らされています。楼門の先には弊殿と舞殿が続き、その奥に本殿が位置します。この本殿は、「八幡造(ハチマンヅクリ)」という形式。2棟の入母屋造、平入りの建物が前後に接続した形になっています。前殿と後殿との中間には一間の相(アイ)の間が付いているそうです。その2棟の軒と軒の接するところには、「黄金の雨樋」が渡されていて、それは、天正8年織田信長の寄進によるものと言います(通常非公開だとか)。(資料2,3,4)イラストの建物の配置が大凡ご理解いただけることでしょう。御祭神は三柱です。 中御前 応神天皇(誉田別尊 ホムタワケノミコト) 東御前 神功皇后(息長帯比賣命 オキナガタラヒメノミコト) 西御前 比咩大神 (ヒメオオカミ) [多記理毘賣命(タギリヒメノミコト)・市寸島姫命(イチキシマヒメノミコト) 多岐津毘賣命(タギツヒメノミコト)] 楼門の西側の回廊と瑞籬。回廊に沿って、吊灯籠が列をなしています。 唐破風屋根のこの楼門の前が参拝所になっています。 屋根裏と虹梁との間の欄間には、龍虎が透かし彫りにされていて華やかに彩色されています。虹梁の上の屋根を支える束はシンプルな形です。 頭貫の上で虹梁を支える蟇股の形はシンプルですが、向かい合う鳩が浮き彫りにされています。鳩は”はちまんさん”のお使い。神鳩だそうです。第1回にご紹介しました一ノ鳥居に掲げられた「八幡宮」の扁額を思い出してみてください。「八」の文字は、この神鳩がさらにシンプルな形にデザイン化され「八」の文字として使われています。 頭貫の両端の木鼻には、胴体部分も含めた龍が彫刻されています。木鼻には獅子あるいは象を彫刻してあるのが一般的な例だと思います。 木組の姿が美しい。 楼門大屋根の大棟の先端には獅子口が置かれ、二本の綾筋の下に菊の紋が陽刻されています。 参拝後、右側に下りますと、回廊と瑞籬の石垣の前に、「国宝 石清水八幡宮 御本社」というタイトルの案内板が設置されています。上記したことと重複する部分がありますので、重複を避けて案内の要点を列挙します。*石清水八幡宮の本社は、国内で現存する最大かつ最古の八幡造の神社建築*石垣の上全体を『本社』と言う。十棟の建造物と棟札三枚が国宝に指定されている。*1634年、德川三代将軍である德川家光公により修造された。*正面の楼門からつながる丹塗の廻廊は神社建築として類例の少ない大規模なもの。*建物の主要部は朱漆塗。舞殿は石敷。*欄間や蟇股など随所に150点余りもの極彩色の彫刻が施されている。石清水八幡宮の由緒によりますと、平安時代の初め、清和天皇の貞観元年(859)、南都奈良の大安寺の僧・行教和尚(ギョウキョウワジョウ)が豊前国(現・大分県)の宇佐八幡宮にこもり日夜祈祷を続けていたとき、「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託を得たそうです。清和天皇の命により、木工寮権允(モッコウリョウゴンノスケ)橘良基が、宇佐八幡宮に準じて八幡造の社殿を6棟を造営し、翌貞観2年(860)4月3日に八幡大神が遷座されたと言います。(資料2,5,6)遷座前、男山には石清水寺があったそうです。貞観5年に行教がこの寺を護国寺と改め、石清水八幡宮の神宮寺にしました。その実権は行教の出身氏族紀氏が握ることになったそうです。石清水八幡宮は創建当初から、八幡宮と護国寺が一体のものとして、神仏習合の形で明治に至ることになりました。(資料5,6)この男山に創建された石清水八幡宮は、都の裏鬼門(西南の方向)を守護する鎮護国家の神に位置づけられます。さらに武運長久の神として清和源氏をはじめ全国の武士が尊崇を寄せていくことになります。清和天皇の孫・経基が臣籍降下し源氏姓を名乗り、その系譜となある頼信が八幡宮を源氏の氏神とします。源義家が社殿前で元服して八幡太郎と呼ばれるようになります。武士の間に八幡信仰が広がる嚆矢といえるのでしょう。(資料2,5,6) 屋根の大棟の鬼瓦 石垣の近くから眺めた吊灯籠この後、本社の周辺を一巡して外観を拝見しました。本社の背後(北側)には、摂社や末社が祀られています。まずは、この本社の外観を眺めていきましょう。反時計回りに巡りました。 右は、正面(南側面)の廻廊・瑞籬の南東角部分。左は、東側面に1ヵ所設けられた石造の樋。石垣から少し突き出た形です。意図は不詳。 降棟の先端に置かれた鬼瓦 本社の周辺には、参道では見かけなかった石灯籠です。火袋と笠等が六面(六角形)、笠に蕨手が付き、竿が円柱等の特徴を示す春日燈籠の形式の石灯籠が奉納されています。 東側面には、本社の内部への出入口が設置してあります。「東門」が使用されています。 左は東側面の北半分の景色。右は北東角辺りを北から眺めた景色。ここで細部を一つ見落としていました。「鬼門封じ」です。 (資料2)東北角の石垣の形状です。リーフレットから引用します。現地でご覧ください。次回訪れる機会があれば、確認してこようと思っています。 本社の北側面。瑞籬と廻廊がよく見えます。通路を挟んで右(北)側には、摂社・末社が並んでいます。次回にご紹介します。 西側面に回り込んで廻廊沿いに半ばまで歩み、振り返って北方向を撮った景色です。 西門 蟇股。ここは正面とは異なり、透かし彫りの彫刻が施され極彩色に塗ってあります。 こちらの木鼻は象の頭部と脚部が彫刻されています。白象に彩色されています。 西門の北側置かれた石灯籠の向こう側に、東側面と同様に石造の樋が設けてあります。今、ふと思ったのは、八幡造の建物の屋根に設けられた「黄金の雨樋」に集まってきた雨水が左右に分流して導かれ、最終的にこの石造樋が排水口になるのかな・・・・という推測です。推測如何? 南側から西門の側面を眺めた景色これで本社の外観をほぼ一巡してきたことになります。つづく参照資料1) 朝日新聞 2023.12.23(土) 京都版「8メートル御神矢お目見え」2) リーフレット「国宝 石清水八幡宮」3) 石清水八幡宮について :「石清水八幡宮」4)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p1155)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p32-356)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p32-337) 清和源氏 :ウィキペディア補遺石清水八幡宮 ホームページ行教 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ