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カテゴリ:恋愛、結婚、失恋、片想い
僕らの新婚時代 目黒川と都営住宅 第三話
この記事は、 実は一年以上前に書き上げていたのですが、載せようかどうか迷っていました。 私の正体を知っている人が増えて来ましたので、やはり世間体が気になります🤣🤣🤣 それでもUPしようと思ったのは、第一話、二話を読み返して見たら、何故か泣けて来て、、、 これからも過去の記憶はおそらくどんどん無くなっていくだろうし、こんな拙い文章ですが、残しておいた方が後悔しないかなと思った。 僕達が出会ったのは、国立療養所 東京病院。 東京都清瀬市にある結核患者の為の病院だった。 今はどうか知りませんが、その頃は結核予防法で結核の治療費は全額無料でした。 当時の僕は2🔺〜2❌才くらいだったと思う。 嫁さんは僕より2年6ヶ月年上。 学年では3年上だった。 でも、見た目の年齢は実際の年齢よりも相当若く見えた。どう見ても17〜18才くらいにしか見えなかった。 その頃の嫁さんは、童顔で若いと言うよりも、幼い と言った感じが強かった。 結核は毎日毎日注射と薬を飲んで、安静にしてないといけない病気。病院の夕食は早いから、夜になるとお腹が空いてくる。 病室毎に皆んなで夜食を作る事も多くなって、嫁とはその時、食堂で知り合った。 その頃の僕は、田舎から出て来て3年目くらいだったと思います。何も持たずに、手ぶらで、衝動的に田舎から出て来たので、服や家電品等もその頃どうにかやっと揃い始めた頃だった。 1番お金が掛かったのが、服だった。荷物も何も持たずに出て来てしまったので、下着も含めて、着てきた物しか無く、季節ごとの服を揃えるのは大変だった。僕が買える様な安物の服は、すぐに形崩れしたり、ダメになるのも早かった。当時はまだユニクロも無かった時代。 それから次は家電品。家電品と言っても、六畳一間のアパート、トイレは共同でお風呂は近くの銭湯だった。だから、家電品は扇風機とコタツ、それに小さいテレビだけだったけどね(笑) そんな生活状況だったから、東京の繁華街へも行った事がない、まだまだ田舎者そのものだった。 そんな誰にも相手にされそうもない僕に興味を持ったのが、今の嫁さんでした。 嫁は学生時代、いつもクラスの人気者だったそう。(学生時代の友達談)🤣🤣🤣 そんな嫁なのに、僕の何が気に入ったのか不思議ですね。 当時の僕は何も無かったからね。 お金がない、家がない、職もない しかも 病気持ちで病弱。 自分自身、この先どうすればいいのか見当が付かず、とても不安だった。 きっと、田舎育ちの不器用で、要領の悪い青年が珍しかったのかな? 都会の子の様な、機転も働かないし、ただ田舎者だけに、妙に純粋、純朴 な男子が新鮮だったのかも。この頃の僕はまだ純朴で、まっすぐな田舎の青年そのものだったから。 入院中は、よく散歩に誘われた。 向こうは、嫁と同室の女の子、こちらも僕と隣の病室の男の子。 その頃、嫁が僕に気があったなんて知らなかった。 僕の事を好きになる女子なんて、いる訳ないと思ってたから‼️ その頃の僕は、誰が見ても、将来有望な青年には見えなかったと思う。 有望と言うより、厄病神の様だったかもね。 僕自身、あの頃の自分の様な青年と、娘が結婚する。と言ったら絶対賛成は出来ないと思う。(笑) そんな訳で、僕らのデートコースは、誰もいなくなった外来の待合室や、病院の周りに作られた散歩道でした。 この病院に嫁は半年、僕は一年入院していた。 僕は嫁さんよりも何ヶ月か後に退院したが、嫁は先に都営住宅に入居し、僕を待っててくれた。 当時は(今も^_^")とっても可愛い女の子だったから、その気になれば、いい人が沢山いただろうに、、、 実際に、入院していた若い患者の間でも人気者だった。 僕と嫁さんの馴れ初めはこんな感じでした。 あれからもう何十年経ったのでしょうか😊😊 目黒川は今も当時のまま殆ど変わりなく、住んでいた都営住宅もあの頃のまま。 ![]() 何年か前に隣に住んでいた家族の部屋を訪ねた事があります。 奥さんと息子さんがいて、ご主人様は亡くなっていました。 入口にある集合郵便箱の名前を見たらもう知っている人達は殆どいませんでした。 ![]() むかし むかし、東京は東品川、目黒川沿いの都営住宅に 貧しいけれど仲の良い若夫婦が住んでいました、、、 あれから○○年 あの若夫婦、今はマレーシアで 幸せに暮らしているそうです☺️☺️☺️ 完 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.06 18:03:05
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