カテゴリ:陸道をゆく
【古墳探訪】
日曜日、何気なく近所を散歩していたら道路のはずれに古墳の入り口のガイドがあった。「稲荷前古墳」とある。有名な仁徳天皇陵と同じく「前方後円墳」が多い。関東地方に古墳がこんなにあるとは意外であった。 ![]() ガイドに沿って丘陵の上に登ってみる。ほんの数分で到着する。真夏であったが草原のように適当な長さの草が群生し、実に気持ちよい。 ![]() 【稲荷前古墳】 横浜市青葉区大場町の南端部に神奈川県指定史跡の「稲荷前古墳群」がある。四世紀から六世紀にかけて都筑の地を治めた首長の墓であろうという。南に鶴見川を見下ろす丘に、三基の古墳が保存されている。 稲荷前古墳群は1967年(昭和42年)、付近の住宅造成中に発見されたものという。南北に連なる尾根に、前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳など、10基の古墳と、9基の横穴墓が発見され、当時は「古墳の博物館」とも呼ばれたという。現在「稲荷前古墳群」として残る場所の北方には住宅街が広がっているが、実は現在住宅街に姿を変えたその場所に、古墳群の大部分があったらしい。ほとんどは住宅地に姿を変え、現在のものが辛うじて残ったというわけだ。 発見された古墳群は1967年(昭和42年)と1969年(昭和44年)に発掘調査が行われ、1970年(昭和45年)、0.8haほどの面積が神奈川県史跡に指定され、発見されたもののうち、15号墳、16号墳、17号墳の3基の古墳が残されている。15号墳と17号墳は方墳で、16号墳は珍しい前方後方墳という。この16号墳は四世紀後半に造られたもののようで、最も古い時期の古墳のひとつであるらしい。 なんとなく古代の入り口に足を踏み入れたみたいで実に厳粛な気持ちがした。 しかしこの古墳は本当にこの頃、何故未開の地であった「東国」になぜ出来たのだろう? 調べてみるとこの古墳は予想どおり朝鮮半島からのとくに百済に近い「伽耶」という地域に多く見られるとの記述を見つけた。 【前方後円墳】 1983年に韓国慶尚南道の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになったものの、現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。そのことから、これらの前方後円墳は、当時南下せんとして盛んにこの地域に圧力をかけていた百済に対抗すべく、倭人の勢力と結託してその文化・風習を積極的に取り入れた伽耶の在地領主の墳墓ではないかという説が出されている。また、この地方の国守として倭より派遣されていたとされる穂積臣押山(ほづみのおみおしやま。『日本書紀』継体六(512)年条に記述がある)のような倭人領主の墳墓と見る説もあり、墳墓に眠る人物の身元はいまだに確定していない。 <つづく> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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