カテゴリ:千の朝
「言葉」とは、本来、 現実の「事物」と必然的かつ実体的な連関を持つものではなく、 その限りで「恣意(しい)」的な存在であり、 従って、言語を構成する個々の記号相互間に内在する 「構造」や「規則」の探求こそが重要であると主張されたり、 さらには、そこから進んで、 「意味」は、記号間の「差異」によって任意に生み出されてくるものであり、 それゆえ、テキストの「唯一正しい意味」の探求ではなく、 読者の側が、あらゆる既成の「コード」(解読規則)や 「大いなる物語」から解放されて(「脱構築」)、 自由な「意味」創造を行うべきであるといった議論がなされているのである。 すなわち、「言語」の背後にあらかじめ確固として存在するとされた 「思想」に視線を遣(や)るのではなく、 「言語」の手前に関心を集中させ、そこに浮かび上がってくるところの、 いわば絶え間なく浮動するような 「意味」の戯れに身を委ねるべきだというのである。 そこでは、言語空間をあらゆる「形而上学」や「大思想」から解き放ち、 そのことで、「言語」や「記号」の自立を確保しようとする 志向が働いていると言ってよい。 「近代日本精神史論」 坂本多加雄 講談社学術文庫 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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