899825 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2024年03月18日
XML
カテゴリ:認識の歩み


モンゴル皇帝フビライ・ハーンは、
高麗国王元宗を降伏させ、これを朝貢国とし、
一一六六年、フビライは軍事力による征服の
威嚇をこめた日本招諭のための使者の派遣を
高麗に強要しました。

いったんは
「風涛(ふうとう)の険阻(けんそ)」を理由に辞退した高麗も、
フビライの強圧には抗しえず、
一二六八年(文永五)に高麗の使者は大宰府に到着しました。

これに対し、関東の幕府では、
一四歳の若さで父時頼のあと
得宗となった時宗(ときむね)が、
宿老北条政村(まさむら)を執権に立てて
自らは連署となり、
金沢実時と安達泰盛(あだちやすもり)が
これを支える体制をとっていました。

一二七三年二月、南宋の襄陽が陥落し、
四月には三別抄(朝鮮では
モンゴルに降伏した高麗王室の態度を不満として、
一二七〇年、三別抄が反乱を起こし、
モンゴル軍の乱暴に苦しめられていた
朝鮮南部各地の農民の支掲をえて、
済州島(さいしゆう)を拠点に
モンゴル軍・高麗軍と戦った)も敗れ、
済州島すなわち耶羅(たんら)もモンゴル軍の手におちました。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年03月18日 05時00分10秒
コメント(0) | コメントを書く
[認識の歩み] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.