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モラルに体当たり記

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April 3, 2010
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カテゴリ:カテゴリ未分類

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Last updated  April 4, 2010 01:04:00 AM
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March 12, 2008
カテゴリ:考えごと
友人にOさんという編集者がいる。

彼は、ある出版社に長らくいたが、
「自分の面白いと思える仕事をしたい!そういう本を作りたい!」と、
昨年だろうか、フリーになった。

そしてその後、ここならやりたい仕事、面白いと思える仕事ができる!
と思えたと言って、ある設立間もない出版社Mに入った。

そのOさんが編集に携わった本が出版されるという。
かなりワクワクして、その本の案内を待っていた私。

しかし、その本は、いわゆるビジネス書、
「成功本(成功した会社の本)」であった。。。。

「なんら問題でも?」とこれを読んでる人は思うかもしれないけれど、
私的には、ビジネス書って、聞いただけでなんか買う気をなくす。

ビジネス的には当たり前のことだとは思うけれど、
「当たり前を疑う」という学問に従事している身としては、

「成功本」「自伝本」(及び経営系の本の多く)は、
ビジネスの拡大と金銭的な成功を、
全く疑うことなく「成功」の定義として自明視していることへの疑問と、
さらに「俺ってすげ~だろ~」的な自己顕示を感じてしまうため、
私があまり手を出さない分野。

「成功本」は、毎年毎年たくさん出ているけれど、
会社が変わるだけで内容ほとんど同じじゃん。
はっきり言って、知的刺激がないので読んだとしてもポイ捨て。

(でもこれって皆そうなんだと思う。明らかに「成功本」は
ブックオフでの平積み率と100円率が高いもん)

そんなわけで、いくら友人Oさんが編集したといってもな~、
買ってあげたいけど、成功本に何千円か出すなら、
ほかに買いたい本いくらでもあるし・・・、

という思いと、

でも、Oさんが夢を持って入った会社とはいえ、
そこは設立間もない弱小出版社M。
「ま、やっぱり経営的にはそういう本にも手を出さないと
やっていけないんだろうな~」という推測もあり、
だったらやっぱり買ってあげないと!

という気持ちもあり。

買おうかな、どうしようかな~~、と思っていた。

で、ここからが、やっと本題なのだが!!!!

先日、彼が、日記に「その本を読んだ本屋さんから来た感想文」(*)を
アップしており、
それを読んで、私は「ああ、この本、やっぱり買おう!」と思った。

そう思ったのは、その感想が「この本の内容はとてもいい」
というものだったからではない。

本の内容如何ではなくて、感想に
「この会社の本を、出版社M(ひいてはOさん)が出すという
理由がわかった!」
と書いてあったからだ。

ああ、この会社(出版社M)は、今、
着実にブランドを築いていっているのだなあ、と感じた。

商品に込められた「思い」は、商品が直接語りかけるものではない。
しかし、そこにあるものは、やっぱり「伝わる」のだ。

そして、いくつもの商品を貫いている「思い」や「こだわり」も、
やっぱり何を言わなくても、伝わっていくのだと思う。

ブランドを作ることは、最初はビジネス的には厳しいかもしれない。
けれど、私としては、ブランドを築いていってほしいと思う。

M社から出ている本であれば、絶対面白いから買おう!
と、私がパブロフの犬的に思うようになるまで。

応援してます!

てことで、皆様、『謎の会社、世界を変える』ミシマ社
買ってね。
(感想文は内容も褒めてたよ!!!いわゆるビジネス書と毛色を異にするらしいっす)






Last updated  March 13, 2008 09:22:25 PM
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March 11, 2008
カテゴリ:身辺雑記
いや、ねらーなのは彼氏じゃないんですけどね、
とまず彼の名誉のために断っとく。

実際は、弟がねらーだと発覚したんですけど。
なんか、若干ブルー。

いや、自分だってねらーだし(書き込まないけど)、
友達がねらーなのは、ぜんぜん気にならないし、
むしろ、話楽しいし、いいんですよ。

でも、なんか、家族とか、ましてや彼氏とかには
ねらーであって欲しくないな、と。
ああ、なぜ?!でも、そうなの!

今時ネットやってるヒトで、
2ちゃんねる見ないヒトって少数かもしれないし、
読んでればbasicallyまともなヒトのほうが多いのわかるし、
矛盾なのはわかってるんですけどね、

でも、なんか、品位を疑うというか・・・。

弟でも相当がっくりですよ。
だんながねらーだった日には、もう泣いちゃいます。

逆に言えば、私もそう思われる可能性があるってことなので、
てことで、みなさま、うちのだんなには、
私がねらーな件は、緘口令でお願いします!

夜露死苦!!

でもって、みなさまも、ねらーであること、
彼氏彼女にはばれないようにしたほうがいいぞ!ってことで。






Last updated  March 13, 2008 09:21:17 PM
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March 10, 2008
カテゴリ:考えごと
大学院に行って良かったことのうちのひとつは、
「複雑なものを複雑なまま理解する」ことの大切さを学んだことだ。

世の中では、「AかBか」「黒か白か」という二者択一を迫られ、
そのどちらかを潔く選ぶことが、はっきりしていてぶれずにカッコいい!
と思われるふしがあるように思うが
(実際自分も過去そうおもってきたし、そう振舞ってきたこともあったが)

現実の世の中っていうのは、ほとんどの場合、
二者択一でぶった切れるようなもんじゃなくて、
すごく複雑な相互作用の中にあるのだと思う。

たとえば、
不倫している友達に、「それは悪いことだよ」というのは正論だし簡単だが、
でも、そこには、相手が「別れることを前提に」という話をしているとか、
「自分でもやめたいけれど好きな気持ちはやめられない。
むしろやめられる方法を教えてほしい」とか、
一言では言い切れない様々な事情が働いている。

何事においても、その分野で初心者のうちは、
「正解」を覚えていくことが、その分野での一定の知識を身につけていくうえで必要である。

でも、その分野に詳しくなっていくにつれ、人はだんだんと、
「正解のない世界」に入っていくのだと思う。
すなわち、「自分なりの正解」を出していく過程へと入っていくのだ。

そのときに重要なリテラシーとなるのが
「複雑な物事を複雑なまま理解する」という能力でないかと思うのだ。

それは「正しい/間違っている」の二者択一的な議論とは相容れない。
様々な人の、様々な利害と様々な考えは、それぞれの人の立場から見て正しいからだ。
そして相手の立場は、それぞれの立場から見て「間違っている」。

つまり、通常、ある物事は、Aという側面から見たら正しいが、
Bという側面から見たら間違っている、
そしてまたCという面から見たら・・・・というように、
多面性を持っている。

ほとんどの場合、すべての物事は、複数の人の利害を含むし、
その利害が一致することはまずない。

そのなかで、二者択一的な論理を持ち出すのはとても危険である。

議論が建設的な方向にいかない時というのは、
このように利害の対立が起きてしまったときに、
誰が「最も」正しいかという議論に走ってしまうためである。
(残念ことに、日本の政治はこのレベルだと思うけど)

「誰が最も正しいか」を話しても無駄である。
だって、それぞれの人の立場から、それは「最も」正しいことなんだから。

だから、利害や意見が対立したとき、重要なのは、
二者択一的に答えを見出すことではなくて、
まずは、複雑な状況を複雑な状況のまま理解する、ということであろう。

これは答えを出すなということではない。

ただ、少なくとも、状況を二者択一的な理解をするよりも、
複雑な状況をきちんとつかんでそれを理解するほうが、
よっぽど現実に即して、多くの人を救えることが多いはずだ。

もちろん、ずっと労力がかかり大変ではあるけれど、
その部分の知的負荷を怠けることはしてはならないのだと思う。

でもまた、その「複雑な状況を、いかに人にわかりやすく伝えるか」というのは、
また別の作業で、それはそれで大変だったりするんだけれどね。







Last updated  March 13, 2008 09:20:01 PM
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March 9, 2008
カテゴリ:考えごと
結婚式~2次会で、私の友人に何人も会うことになった彼がしみじみと言った。

「よく類友とか、友を見ればその人がわかる、とかいうけど、ほんとだよね~。」

ちなみに、私と私の友人の共通点は「いいかげん」。
(←友達の皆様、勝手ないいかげん認定、すみません・・・)

彼は、常日頃「飛鳥ってなんていいかげんな奴なんだろう!」
と思っていたが、
まさか、友人までがいいかげんだとは思わなかったらしい。
そして、友人までもが、みんな、
かなりいいかげんでテキトーなことに驚いたらしい。
(とはいえ、私は中でも群を抜いていいかげんだけどね)

まー、よくよく考えてみれば、
「自分自身もある程度いいかげんだから、
とっーてもいいかげんな飛鳥を許せる」
ということで、友情がつながっている気がする。

(ちなみに、いいかげんでない方々は、私に怒りを感じ、呆れ果て、
付き合いきれないと、去っていく。)

同様に、うちの彼も頑固だが、彼の友人もやっぱり「頑固」。
うむ、面白い。

よって、自分のことを知りたかったら、占いとかするのでなくて、
友人をぐるりと眺め回してみると良い。

そうすれば、自分がいかなる人間かわかるであろう。


・・・・にしても、キチキチした人間も、少しは友達に増えないものだろうか。
・・・・無理か。






Last updated  March 13, 2008 09:23:24 PM
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December 17, 2007
カテゴリ:身辺雑記
最初に断っておきますが、ネタじゃないです(w。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私、先週の日曜日に結婚いたしました。
相手は大学の同級生で、彼の留学からの帰国を待っての結婚となりました。

いやー、負け犬軍団にいつまでも居座るであろうと思っていた私が、
自分でも意外な早さでの結婚です。

披露宴にいらしてくださった皆様、本当にありがとうございました!!
準備が不十分で、楽しんでいただけたか不安が残りますが、
私は、皆にいっぱい祝福されて、本当に嬉しかったです。

人数の関係でご招待できなかった方々が多かったのが、本当に残念ですが、
1月26日(土)に恵比寿で二次会を行いますので、
皆様、お誘いあわせの上、ぜひいらしてください☆
詳細はまた載せますね~。

披露宴の翌日に引越しだったため、本当にバタバタしており、
まだ結婚したっていう実感は全然なく、
むしろ、すべてが夢・まぼろしだったような気すらします。

実感できるのは、この泥棒が入ったように散らかっている新居にいるということのみ。
ダンボールを開ければ開けるほど散らかっていきます。
片付けの先行きが全く見えません、どうしよう・・・。

そんな状態ではありますが、それでもよければ、
ぜひ家にも遊びに来てください。
だんなは帰りが遅くて暇だし・・・ではなく寂しいし(←新妻アピール)、
私はいつでもウェルカムです!

それでは、これからもよろしくお願いいたします。






Last updated  December 17, 2007 10:11:42 PM
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July 7, 2007
カテゴリ:専門
スピヴァクの講演会@一橋に行ってきました。

以前書評を書いたこともあるけど、
スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』を書いた
インドの人文学者・哲学者。

ポストコロニアル批評の代表的な研究者で、
現代の最高の知性の一人といってもよいお方。

当日は、主催者側が見込んでいた200名を
はるかにオーバーした人数(たぶん600名程)が押し寄せ、
会場は大幅なキャパオーバーで大混乱。
(私は1時間前に行ったので、十分座れましたが)

メディアに宣伝しているわけでもないのに、
これだけの人を辺境・国立まで呼ぶことができるという所に、
現代におけるスピヴァクの影響力を感じ取れる。

それほどのお方ですもの。どんな方かと思いきや、、、
髪の毛がオレンジの五分刈りな、ファンキーなおばちゃんだった。

予想外の人数による会場の様々なトラブル・手際の悪さにも、
むっとすることなくユーモアで対応していて素敵☆
しかも、講演途中にインドからかかってきた妹の電話に出る
という暴挙っぷり(w。最高☆

でも、講演の内容は、ひとつひとつ、とっても深いな、と
感じさせる内容で、自分の研究についても、非常に考えさせられた。
このことは、もう少し時間をかけてゆっくり咀嚼したい。

それから、今回の講演では、通訳を担当した
東京経済大学の本橋先生の通訳が、本当にすばらしかった。
アカデミックの講演で普通の通訳を雇うと、
その分野の専門用語がうまく訳せないという問題があって、
聞いているこっちがイライラすることがよくあるのだけれど、
さすがポストコロニアル研究者だけあって、
非常に的確な訳でした。

そのあと行われたレセプションは
信じられないくらい人が少なくて(30~40人くらいかなあ)、
スピヴァクに直接質問する機会もあり(!)、
その他にいらしていた第一線の先生方とお話しすることもでき、
実に有意義でしたよ。
(学生料金が4000円だったので、皆遠慮してしまったみたい。
もったいない!)

私は、2ショット写真まで撮ってしまいました☆イェーイ!
これだけでも4000円払った価値はあるわ!

さて、ここでは、いくつか印象に残った話を。
第一に、コサインの『排除されたものたち』という本について。

この本には冒頭にこんな言葉がある。
「私たちは幽閉されることにすっかり慣れきってしまった。
 そのため私たちは、幽閉されることに対しては、
 何の抵抗も感じない。
 (たとえば)女性漁師に
 「腐った魚の匂いはいい匂いですか?悪い匂いですか?」
 と聞いたとしても、彼女たちは答えられるだろうか?」

もちろん、女性漁師に腐った魚の匂いを聞くことは、メタファーである。

ここで言われていることは、
腐った魚とともに生活している者にとっては、
「腐った魚」は日常であり、与えられた現実であり、
それが、腐っているのかどうかすら判断する基準がない、
ということ。

私は、以前読んだある被差別部落出身の女性の話を思い出した。
その部落研究の中で、彼女は小さい頃の経験を思い出して、
こう語っている。

彼女には、友達の家に呼ばれないとか、
友達のお母さんが彼女に投げかけた言葉とか、
「なんとなく変だな」
と思うことが、記憶の中にいくつもある。

けれど、幼い頃の彼女には、
それは「なんとなく変なこと」というものでしかない。

その彼女は、大きくなって開放運動に足を踏み入れる。
そして、そこで様々な理論を学ぶことによって、はじめて、
小さい頃「なんとなく変だな」と感じた過去の様々な出来事が、
「ああ、あれは差別だったんだな」と、再度編みなおされた
と語っている。

このように、差別や抑圧を受けている当事者の多くは、
自分たちが置かれている状況を、差別的なものだとも思わず、
疑うことを知らず、ただ、受け入れているのである。

だから、「幽閉された」者たちに、
権利の声を上げるよう求めたって、それは無理な話だ。

かれらの日常には、権利の概念はない。
いや、たとえあったとしても、
その権利が受け入れられる素地がないなら、
誰がそれを主張するだろうか。

コサインの言葉を借りて言うなら、
「腐った魚なんて嫌だ」と言ったならば、
新鮮な魚を与えられるのではなく、
今持っている「腐った魚」すら、取り上げられてしまう状況にあれば、
「腐った魚は嫌だ」なんて言えるはずがないのである。

コサインの文を引用したあとに、スピヴァクは、
「体験的な判断」と、「理論的な判断」を
区別することが重要であるといっている。

上の被差別部落の女性の例で言うなら、
「なんとなく変だな」と感じたことは体験的な判断である。
それをその後「差別」だと認定したのは、理論的な判断。
この、二つを分けることの意味は、とても重要である。

人々にとって、抑圧された者の声なき声に耳を傾け、
彼らの現実・体験を知ることは大事なことであるが、
それと、理論的な判断とはまったく別のものでなくてはならない。

抑圧された者が
「別に不幸じゃありません、今のままでいいです」
と言ったからといって、それを鵜呑みにして、
「あ、そう。じゃあこのまんまでいいのね」
と放っておくというわけにはいかない。

だって、それは「知らない」がゆえの、
体験ベースの判断かもしれないのだから。

しかしながら、である。
ここで終わらなかったのがスピヴァクの素晴らしい点なのだが、
では、彼らの声を、研究者や活動家が、
掬い上げて、代弁すればそれでいいのだろうか?

否、である。
スピヴァクは、研究者や活動家が、単に、
声なき抑圧された者の声を「代弁」することへも警鐘を鳴らす。

『サバルタンは語ることができるか』で、
スピヴァクが提起した問題とは、
そのような代弁者たちが、「彼ら」を分類し、分析することで、
「彼ら」の実情とはかけ離れた虚構の「彼ら」を作り出し、
あたかも自分たちが「彼ら」の代表者であり、
「彼ら」のことを彼らよりもよく知る専門家である
ような顔をして語ることの権力性である。

声にならない声を聞こうとしつつも、
その聞いた声の代弁者にならないためには、一体どうしたらいいか、
という部分にスピヴァクはクリアーな答えは与えてはくれない。

たぶん、そこをもう一歩推し進めるのは、
スピヴァクにそういう疑問を投げつけられた私たちの役割だ。

体験的な判断と理論的な判断を分けること。
代弁者になることなく、彼らの声を拾うこと。

このことは、誰のために、何を研究するのか、という
私自身の根本的な問題に関わっていると思う。

この夏にでも、少し突き詰めて考えてみようと思う。

長くなったのでまずはこのへんで。






Last updated  July 10, 2007 01:58:15 PM
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March 19, 2007
カテゴリ:身辺雑記
国でたとえれば日本、歌でたとえれば演歌と言われるくらい、
大和の撫子なわたくし。

基本の性格は、重~く、暗い情念系。
実は、言いたいこともあんまり言えずに、情念が鬱積するタイプ。

しかも、さすが巳年生まれ。
表面上忘れたふりしてるけど、実は、過去の細々したことを、
ずっとずっとずーーーっと、しつこく覚えている。
それが嫌なことなら特に。

一見そんな人に見えないかもしれないが、それは、私が情念を抑圧し、
軽く、明るく見せかけているからである。

「そんな明るく見せかける必要はない」という方がおられるかもしれない。
しかし、私の内面の情念の暗さには、本人も辟易なのだ。
ましてや、他人であれば、いかばかりか。

それでも情念を押し殺し、軽く明るい顔を前面に押し出すようになって早十数年。
軽さも明るさも板についてきて、最近では情念そのものも薄くなってきたような気がする。

そもそも、自分の過去を悔やんだり人を恨んだりするのは、
実際、大変疲れることなのだ。
そんな思いがなくなってくれるなら、それに勝ることはない。
しかも季節は春。心なしか足取りも軽くなる。

しかし、そんな明るい私の心にひとつ、暗い疑いがよぎって消えない。
もしや・・・・これは、情念が軽くなってきているのではなくて、
生き霊が飛んでいるのではないか。

情念は、それを解放せず抑圧すると、生き霊となってしまうのである。
生き霊系の大御所、六条の御息所(@源氏物語)がそれを証明している。

六条の御息所は「人を恨んだり憎んだりするのは品がない」
「嫉妬などしない良い人間でありたい」と思っていた。

そのため、彼女の嫉妬は理性によって抑圧され、抑圧された嫉妬は、
最終的には、生き霊となって御息所の体を飛び出してしまうのである。

生き霊ほど始末の悪いものはない。
本人は無意識なんだから、本人にも生き霊が何をしでかすかわからないし、
コントロールも不能で止めようがないのだ。

大体、人間の性格など、そうそう変わるものではない。
演歌系・情念系の私が、最近情念を感じないのだとすると、
それは情念が薄くなってきたのではなくて、抑圧のあまり、
私の情念が生き霊となって飛んでいっている可能性はありうる。
大いにありうる。

しかも、根暗な私の生き霊のこと。
ほんとに根暗な嫌がらせをしつこくしつこくするに決まっている。
これはいけない。うん、いけないよ。

そもそも、生き霊が発生するメカニズムは、
自分の中に生まれた悪意や煩悩を抑圧するところにある。

コントロールできない生き霊を生むくらいなら、
自分の中に生まれた醜い感情を抑圧せず、解放してあげたほうがよい。

そう。
たとえ私が、たいへん毒を吐いていたとしても、それは、生き霊防止のため。
本当の私は、「良い人でありたい」と強く強く願い、それに向けて努力する人である。

ただ、上記のような事情を比較考量した場合、
(毒を吐く害悪)<(毒を吐かずに感情を抑圧した害悪=生き霊発生)
であるので、あえて毒を吐いているのである。
これぞ、世界平和。ワールドピース。

よって、みなさまには、表面上の毒を聞いて、私を「性格の悪い人」だと
誤解をしないようにしていただきたいものである。






Last updated  March 19, 2007 07:18:45 PM
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March 18, 2007
カテゴリ:考えごと
以前も書いたことだが、美人は美醜にして決まるに非(あら)ず。
美人かどうかを決めるのは美人ポジショニングを取っているかどうかである。

世の中には、
「どこからどう見ても決して美人とはいえない(というよりブに近い)のに、美人ポジショニングを獲得している人」
がいる一方で、
「美人なのに、なぜか扱われ方がブにカテゴライズされている人」
がいる。

美人に生まれたからといって、自動的に美人カテゴライズされるわけではなく、
美人ポジショニングを取れなければ、その人は「美人カテゴリー」から「美人なのに(涙)カテゴリー」へと転落する。

逆に言えば、たとえブに生まれようとも、美人ポジショニングを獲得することによって、
「美人カテゴリー」への昇格が可能になるのである。

繰り返すが、美人になれるかなれないかは、生まれた顔には関係ないのである。
世の女性にとって、これは朗報ではないだろうか。

さて、それでは、美人ポジショニングを決める力とは何だろうか。

それは、「本人の(強力な)思いこみ」と、そこから生まれる「周りに反論を許さない威圧感」である。

美醜を決めるのは、私はイケてる!という「思いこみ力」である。
それが、現実の美に裏打ちされているかどうかなんて、全く関係ない。

そして、それ以上に重要なのは、現実の美醜に関して(少なくとも本人の目の前では)口を挟ませない威圧感である。

美醜にかかわらず、美人ポジショニングを取っている人を見てみよう。

次の日からどんな目に遭わせられるかわからない。そんな予感を与える威圧感がある。
冗談でも「よく見ると、変な顔ですよね」なんて軽口を叩けそうもない。
そんな言葉、口にしたとたんに、目で瞬殺されるであろう。

実際、考えてみると、「あいつ、自分のこと美人だと勘違いしてない?」と陰口をたたかれながらも、
本人の目の前では誰もそんなこと絶対言えない、という雰囲気を醸し出している人が、
あなたのまわりにもひとりくらいいるのではないだろうか。

そんなの裸の王様ではないか、という人がいるかもしれない。
けれど、裸の王様でいいのである。

裸の王様の問題点は、「王様は裸だ!」と叫ばれたとき、裸な自分を恥じ、すごすごと逃げ帰ってきたことにある。

ここで、王様が「王様は裸」といった瞬間に子どもを捉え、
「この布が見えないなんてバカな国民は我が国にはいらぬ。追放じゃ!打ち首じゃ!」
と叫び、恐怖政治をとったならば、
裸の王様は公衆の面前でバカ扱いされるなんて事にならなかったはずである。

恐怖政治下では、王様が「白いものでも黒」だと主張すれば
それが黒になるように、
「私が私のことを美人だと言えば美人」だと主張すれば、
実際、現実のほうが変わっていく。

周りへの有無を言わさぬ威圧感から美人ポジショニングを獲得した人は、
そのポジショニング故、当然、美人扱いを受けることになる。

美人扱い。これこそが、重要なのである。

そもそもなぜ、多くの女性(ときに男性も)が「美」を求めるのかというと、
われわれの生きているこの社会には、「美」を価値と考える価値観が浸透しているが故に、
「美」には付随して社会的資本が与えられるからである。

美人扱いを受けるということは、美人に与えられる社会的資本を使用できるということであり、
(人が美を求めるのは、美から引き出される社会的資本を享受したいからだと考えるならば)
美人扱いさえ受けられれば、美人になる目的は達成したのであり、
本人が美人かどうかの現実はどうでもいい。

(なお、「美人であること」が社会的資本としてどのような価値を持つかということは、
既に様々な研究で明らかにされている(*)ので、ここでは省略する。)

ちなみに、「思いこみ」と「威圧感」から、美が社会的に構築されていく現実のプロセスに関しては、
研究としては非常に面白いトピックだと思うのだけれど、
そんなのこれを読んでいる一般の方々にはあんまり面白くはないだろうから、
今日のところは、「思いこみ」と「威圧感」から
美が社会的に構築されていくということのみを覚えて、
明日から実践してみてはいかがだろうか。

ただ、威圧感があるということは、裏を返せば「怖い」ってことだから、
その結果、「あの人怖い」という評価を得て、社会から孤立することになったとしても、
責任取れないからね。ごめんね。


(*)たとえば、以下を参照。
井上章一 1991『美人論』 リブロポート
蔵琢也 1998 『なぜ、ヒトは美人を愛するのか』 三笠書房
キム・K.P. ジョンソン他 2004 『外見とパワー』 北大路書房






Last updated  March 19, 2007 07:23:41 PM
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January 6, 2007
カテゴリ:身辺雑記
明けましておめでとうございます。
とうとう30歳になりました。

しかし、私は親友陣にすら
「え?飛鳥まだ20代なんだっけ?」
と何回も何回も言われる女。

私自身、あまりに30代な気分で何年もいたため、
体感年齢にやっとこさ実年齢が追いついてきた感じである。

何より「30代、未婚、子ナシ」に名実ともに足を踏み入れたのである。

何だか感慨深い。

そういえば20歳になったとき、
「10代をもう一回やれと言われたら、どう生きるかなあ」
と考えた。

そのときの結論は「同じでいい」だったと思う。

事実、私はそのころ毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかったし、
自分自身が誇らしく、大好きだった。

おかげで、学生時代の友人には
「君、あのころちょっとイっちゃってる人だったよ」
と言われるけれど(w、
そんな他人の目線に気づかないくらい、私は幸せでいっぱいだった。

強くエネルギーに満ち溢れ、無神経で愚かだった私は、
(前から書いている通り)今でも私の郷愁の的であり、
これからもあり続けるであろう。

さて、では20代をもう一回やれと言われたら?
やっぱり今回も「同じでいい」かな。

いっぱい摩擦もあったけど、おかげで色々学び、
ちょっとだけ他人の痛みがわかるようになり、
何をしたいかがかなり明確になってきた。

少し人より時間がかかってしまったことは否めないけど、
人間として成長した、いい10年だったのではないか。

平均寿命も延び続けていることだし、
まあ、のんびりやっていってもいいだろう。


というわけで、すっかり引きこもっていたここ数年でしたが、
今年は少ししたら、色々落ち着く予定なので、
そうしたら、みなさんとゆっくり会いたいな。

こんな私を見捨てずにいてくれた友達の皆様、
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

皆様の一年が、10年後に振り返ったとき
「よかった」と思える一年でありますように。






Last updated  January 6, 2007 12:57:30 PM
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