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カテゴリ:草哲学
この世界には必然しかない。
何故偶然が無いかと言えば、すべての結果は時間を さかのぼってやり直すことが出来ないからで、 偶然とは一つの見方に過ぎないと考えられる訳である。 世の中の結果はすべて必然の繰り返しで流れているが、 心を持った人間は、それを承服しない。 その理由はこれまた「心」を持ったせいであり、 宇宙の神秘・自然の驚異に対し畏敬の念を持って、 その力を神と呼ぶようになった。 この部分の説明を追加しておくと、 人間が心を持った事により、心の中に新たな宇宙を持った。 しかしそれは只の膨大な白紙の原稿用紙でしかなく、 そこには人間の力でしか作れないという限界があるのを 本能的に知っており、その差を埋める為に神を作った。 つまり本物の宇宙を心の宇宙に置き換える事で認識する作業が、 神を作った。 ここでも言語に置き換える行為がなされており、それをしない限り 形而上・形而下を認識できないからである。 その神が人間の都合に合わされて現代まで続く「神」「仏」等となり 自分の力では及ばない物事に対して祈り、誓い、すがり頼って、 物事はすべて必然に流れているのにもかかわらず、 自分に都合の良い結果を神のおかげで「(幸運にも・偶然にも)奇跡」 が起きたと言う。 先が見えない人間の弱さを、人間の作った「神」が補っているわけだ。 もちろん、僕も弱い人間の代表だから「神頼み」をしてるよ。 皆さんの言う神じゃないけどね また、「自分が存在している」「死を迎える」ことから 「神」の必要性が生まれたと言うのもその通りだと思う。 それも言語の集積体である「心」を持ったがためである。 不思議な事に、「自分が存在する」という抽象的概念でさえ、 言語がなければ意識上に上る事は無かったと思う。 ヘレンケラーが始めて知った「water」でさえ、 実際の水を「water」と言う言語で置き換える事で 「水と言うもの」を知ったのである。 「死を迎える」事も心があるために「大げさ」になるだけ。 哲学や宗教は心の「遊び」に過ぎない。 だのにそれに命を懸けて守ろうとする、人間のおろかさよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 21, 2006 12:01:43 AM
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