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ヴェネツィアの獅子たち

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街について

2008/10/03
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カテゴリ:街について
 なぜか、この橋で転倒する人が多く、市の関係者が建築家カラトラヴァ氏に至急、調査と対策の要請をしたということです。そして先日の新聞によると、カラトラヴァ氏が出した解決策は、いくつかの踏み段を取り替える、というものでした。
 
 実際、私も歩いてみました。橋がオープンしてからすぐに「転びやすい」ことが報じられていたので、前半はそれなりに気を付けて歩いていました。が、後半下る時には景色や行き交う人を眺めながら、「気を付けること」を忘れていたためか、つまずきそうになったのです。
 ちょうど、階段の幅が今までの幅から倍になっている部分で、歩くリズムが変わってしまうことと、材料の大理石とガラスのつなぎ目の微妙な段差が原因のようです。
 雨の日や、高齢者の場合、つまづきそうになったでは済まないで、転倒してしまうのは容易に想像がつきます。
 
 ということは、そもそも著名建築家のプロジェクトが間違っていたのか?だいたいそんなこと(人間の一般的な歩幅やリズム)は、設計の段階で何度も精査されるべきことではないのか?橋の設計で有名な氏も、車の通行しない「人間だけの橋」は初めてだったから? 地元の疑問は尽きません。
 
 市側は、踏み段を取り替える費用はどこが出すのか、責任はどこにあるのかなどをはっきりさせないままでは、踏み段の取り替えはしない、という方針のようです。
 
 「転びやすい」という、この橋の機能の問題からすれば、景観や現代建築うんぬんなど、些末なことになりますが、この「憲法の橋」という名前についてもどうかと思うのです。
 決定には紆余曲折あったらしいのですが、どうしてまた「Ponte della Costituzione」などというイタリア語でも固い響きの名前にしたんでしょう。
 今年はイタリア憲法60周年だから、とのことですが、これではまったく耳かき一杯程の想像力もかき立てられないというものです。間違いなく、地元の誰もこの名前では呼ばず、「ローマ広場の橋」か建築家の名前で呼ばれることでしょう。
 
 カラトラヴァ氏が、ヴェネツィアの街へのオマージュとして「寄贈」したと言われるこのプロジェクトですが、 とは言え、橋の両側の手すりの最初と最後の計四カ所にある、彼の紋章の存在については、違和感を持たずにはいられません。
 
 この橋の、特に機能性についての問題は、まずデザインや概念ありきで、実際に使う人間やその後のメンテナンス等を後回しにした結果ではないかと思います。
 
 実際に使えること、続けられること、そして効果的であることに重きを置いてきたかつてのヴェネツィアの政治。プラグマティズムという言葉が生まれる前から、それを貫いてきたヴェネツィア人。それから思うと、この橋にまつわるあらゆることが、「ヴェネツィアらしさ」からは遠いもの、になってしまっている気がします。







Last updated  2008/10/03 05:52:46 PM
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2008/09/26
カテゴリ:街について
 常に批判の的になってきた、この橋の建設にかかった18億円近い経費については、それが高いの妥当なのか、私には判断のしようがありません。それ以前に、この橋が本当に必要だったのか、ということもよく分からないのです。
 あれば多少の便利さは増すでしょう。でもたとえこの橋がなくても、駅の前のスカルツィ橋で、十分今まで通用してきたので、あえてお金をかけて、更に便利さを補う必要があったのか、という疑問は残ります。
 
 それでも、その多少の便利さと、ヴェネツィアへの入り口でありながら、なおざりにされたようなゾーンであった、「ローマ広場と駅周辺」を再整備するという目的については、意義があったと思うので、橋の存在自体の疑問は良しとしましょう。
 
 次の疑問は、なぜ「現代建築」にこだわるのか、ということです。かつてのヴェネツィアは、現代建築のメッカでした。ヴェネツィア共和国政府が決定した公共工事の設計コンペには、内外の有名建築家がたくさん参加して、美しさや奇抜さだけでなく最新の技術やアイデアを駆使して、このヴェネツィアという街に自分の作品を残そうと競い合いました。でもそれはヴェネツィアという街が、当時ヨーロッパでもトップクラスの経済都市で、人と物が集まるメトロポリスであったからです。
 
 至極簡単に言ってしまえば、以前のヴェネツィアは今の東京で、今のヴェネツィアは現在の京都、ということです。なぜ、千年の都の玄関口に、あえて現代建築なのか(京都駅でも論争がありましたが)。旧いものがすべて素晴しい、というつもりは全くありませんが、長い歴史と文化を持つ街には、それを誇り、お金に換えるだけではない、維持するという十字架のような責任があるはずです。最新の科学技術を利用しつつ、見た目はアンティークに仕上げることも可能だと思うのですが。
 
 次に、「禁止事項」について。この橋の脇に、この橋を使用する上での「注意事項」の立て看板があるのですが、そこには、(1)20キログラム以上もしくは1メートル四方以上のカートや荷物の運搬の禁止(2)タバコの吸い殻やガムのポイ捨ての禁止(3)汚したりゴミの廃棄の禁止、とあります。(2)と(3)については、当然のモラルで、この橋に限った話ではないはずです。この橋だけ特別にこうして「通告」する意味が分かりません。
 この橋が「芸術作品」だから、というのでしょうか。それなら、この街すべてが貴重なアートであるわけで、そこに平気で飼い犬のフンを放置する、ゴミを捨てる、小便をする(人間!)、スプレーの落書きをする、地元の人間の教育から始めるべきではないでしょうか。
 
 そして(1)についてはもうナンセンスとしか言いようがありません。大きな荷物を抱えた観光客も多く利用するこの場所で、エコノミークラスの重量制限よろしく20キログラム以内のみとは。公道というのは、あらゆる人があらゆる理由で通る訳ですから。
 とりわけ、車のないヴェネツィアでは、多くの物が人間の手によって運ばれます。この街に橋を造るという根本的な意味を、建築家も行政も無視しているとしか思えません。リアルト橋などは400年以上も前から、朝から晩まで業務用の台車やカートの往来に耐え、磨り減りながらも独特の風合いを出しているというのに。
 
 しかし、それよりももっと重大なことがあります。この橋はどうも「転びやすい」のです。
(その3に続く)






Last updated  2008/09/26 02:15:12 PM
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2008/09/19
カテゴリ:街について
 車での玄関口である「ローマ広場」と、鉄道の入り口「サンタルチア駅」を結び、大運河にかかる橋としては、四番目になる「憲法の橋」が完成し、先日9月11日の夜お披露目されました。
 
 大運河に第四の橋を、カラトラヴァ氏の建築で架けようという話が出たのが10年以上前で、工事が始まったのが4、5年ほど前だったと思います。しかし、工事はいつのまにか中断され、長い間そのままになっていました。
 
 工事の大幅な遅れはもちろん、公共工事が中断され、再開されずに放置されるのは、北イタリアでさえよくあることですから、「役所のやることだから」と、ヴェネツィア市民の誰も不思議にも思ってはいなかったでしょう。
 それが、去年の夏突然再開され、先日の落成となったわけです。
 
 市幹部によると、この橋は『過去の栄光とその遺産にたよるだけでない、未来を見つめて今を生きる、この街のためのシンボル』であり、『旧いヴェネツィアの街に、素晴しく溶け込んだ現代建築』なのだそうです。
 
 この橋のデザイナー、著名な建築家でエンジニアでもあるスペイン人のサンティアゴ・カラトラヴァ氏も言ってるそうです。『この橋は、私の数ある橋の中で、一番美しい』と。
 
 たしかに、この長さ94メートルの橋は、美しいことは間違いありません。そのゆるやかなライン、欄干はガラスで、階段部分は大理石、足下には照明も埋め込まれています。夜にライトアップされた時は幻想的な感じさえします。
 
 けれどもやはり、この橋についてのいくつかの疑問は残り、ある「禁止事項」には、少々驚きました。(その2に続く)







Last updated  2008/09/19 02:27:59 PM
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2008/09/13
カテゴリ:街について
 『モロジーニ家は、ヴェネツィアで最も古く、由緒ある家系のひとつで、4人の総督と27人のサンマルコ行政官を輩出し‥‥‥』と、かつてのヴェネツィアの著名な家系が紹介される時よく目にする文章です。
 共和国の代表で、政治のトップである総督(ドージェ)の次に書かれてある、この「サンマルコ行政官」は、その序列通り総督の次にあたる要職でした。
 
 それまでの功績や実績と人物を総合的に考慮して、ヴェネツィア共和国の大評議会で選出され、任期が終身であることも総督と同じです。
 
 では、サンマルコ行政官(プロクラトーレ)とは、どういう任務であったかというと、サンマルコ寺院建設の管理と監督でした。
 この街の象徴で、守護聖人でもある聖マルコのための寺院は、9世紀始めに完成し、その後も増築や改築、改修を15世紀頃まで行っていました。それらの工事や補修の監督ならびに、数々の宝物の管理が具体的な仕事でした。
 
 最初は一人であったこのサンマルコ行政官は、三人になり、六人になり、15世紀半ばには九人にまで増やされました。寺院の監督以外にも任務の幅が広がったためです。
 
 ヴェネツィア人の心の拠り所であったサンマルコ寺院には、毎年相当な金額の遺産や寄付が集まっていたのです。その財務管理が必要になったからでした。九人の内訳と責務は、
「スープラ」と呼ばれる三人は、サンマルコ寺院とサンマルコ広場の管理、監督。
「チトラ」と呼ばれる三人は、大運河の向こう側の3地区(サンマルコ、カステッロ、カンナレージョの各地区)の慈善事業と遺言書の管理。
「ウルトラ」と呼ばれる三人は、大運河のこちら側の3地区(ドルソドゥーロ、サンタクローチェ、サンポーロの各地区)の慈善事業と遺言書の管理。
 
 遺言書の管理は、遺産の分配が遺言者の書状通りに行われているかを、監視する仕事です。
  慈善事業の内容は、サンマルコ寺院に寄付された財産を使って、困窮者に家を提供したり、クリスマスと復活祭前に、貧しい者に「慈悲手形」という配給券を配ったり、孤児や精神障害者の援助にも役立てられていたのでした。
 
 サンマルコ寺院に集まる莫大な財産を、13世紀当時すでに教会ではなく国家が、社会的弱者への援助を、制度として確立し運用していたこと自体、とても先進的なことですが、もうひとつ、ヴェネツィアならではのスタイルがありました。
 普通、大聖堂や寺院に寄付される財産は、教会の資産としてその土地の司教が管理、運営するのですが、ヴェネツィアは、それをさせませんでした。

  聖マルコを崇めての寄進であって、そこの司教や枢機卿、はては法王を崇拝してのものではないので、ヴェネツィア人にとっては自分たちで管理するのが当然だったのでしょうが、9世紀から15世紀の間では、非常に独自な考え方だったのです。
(写真は、サンマルコ広場両翼の行政館。行政官の住居であり事務所であった)






Last updated  2008/09/13 04:57:54 PM
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2008/08/29
カテゴリ:街について
 ヴィヴァルディ(ヴェネツィア生まれ1678-1741)が、ヴァイオリンや作曲、合唱などを教えていたことで有名な、ピエタ教会付属の音楽院ですが、それより以前から教会付属の孤児院がありました。
 その孤児院があった側には、写真のように、子供を置き去りにする人間を強く非難する内容の、大理石の掲示が、今でも残っています。
 
 ここは、経済的な理由で、どうしても親元では育てられない子供のための慈善院でした。しかし、15世紀から16世紀にかけて、財力があるにもかかわらず、子供をここへ置き去りにする人々が急増しました。
 赤ん坊が巻かれている上質の織物や入れられたカゴ等ですぐに分かったのです。
 
 この時期は、ヴェネツィアが国として最も繁栄している時代と重なっています。貴族や財を成した商人たちが、愛人の間に出来た子供らを、ひそかにここへ連れて来ていたのです。
 
 これに業を煮やしたヴェネツィア政府は、このような掲示をしました。
 「嫡出であれ非嫡出であれ、十分に養育する財産、能力があるにもかかわらず、ここに子を置き去りにすることは、法王パウルス3世の教書にもあるように、許しがたく、破門に処され、必ず天罰がくだるものである。1548年11月12日」
 
 ローマ法王庁とヴェネツィアは、決して良好とはいえない関係にあったし、この法王パウルス3世(1468-1549)も、反宗教改革に乗り出す等、ヴェネツィアの方向性とは違っていました。が、使えるものは何でも使うというか、あらゆる権威を駆使してでも、この裕福な家からの捨て子を減らしたいという、意志があったのでしょう。
 
 当時はそれが普通とは言え、結婚が許されないカトリックの聖職者のトップでありながら、その法王パウルス3世自体、自分の孫たちとともに肖像画に収まっているし、その幼い孫たちにも、枢機卿というような高位を与え、同族主義との批判は免れません。だから、という訳ではありませんが、教書の「効き目」は、ほとんどなかったのではないかと思います。






Last updated  2008/08/29 05:00:51 PM
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2008/05/17
カテゴリ:街について
 このゴンドラというタイプの船は、用途によっていくつかに分かれています。
 イベントやお祭り用のゴンドラには、凝った装飾がほどこされていて色も様々ですし、競技用のそれは反対に、色も形もとてもシンプルな作りになっています。

 その中でも一番よく目にするのが、観光用のゴンドラで、船首部分には「ferro」(フェッロ=鉄)と呼ばれるシンボルがついているのが特長です。
 そのフェッロをよく見てみると、くしのような形をしていて、片側にひとつ、反対側に六つの突起があるのがわかります。
 
 この6+1の突起には意味があって、ヴェネツィアの地区を表しています。
 ヴェネツィアの地区のことを「sestiere」(セスティエレ、sestoは6の、6番目の意)と言って、六つに分けられた区域のことをいいます。
 
 まず、島の北側部分にあたるのが「Cannaregio」(カンナレージョ区)、東部を「Castello」(カステッロ区)、中心部分に「San Polo」(サンポーロ区)と「Santa Croce」(サンタクローチェ区)。
 西部から南一帯を「Dorsoduro」(ドルソドゥーロ区)、そしてサンマルコ寺院がある「San Marco」(サンマルコ区)の六つです。
 シンボル左側の一つはと言えば、「Giudecca」(ジュデッカ)の島を表しています。ジュデッカ島は、ヴェネツィア本島の南側に横たわる細長い島です。
 
 行政上の区域としては六つに分かれているこの島ですが、実際にはたくさんの小さな島を、またたくさんの橋でつなげているのがヴェネツィアの姿なのです。
 小さな島の数は120個以上で、それが400個前後の橋でもってつながれています。そのたくさんの橋の下をゴンドリエーレ(=ゴンドラ漕ぎ)の操る黒いゴンドラが、滑るように音もなく通り過ぎてゆくのです。(以前の、『ヴェネツィアの地区』の記事を加筆しました)






Last updated  2008/05/17 03:00:28 PM
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2008/05/10
カテゴリ:街について
 ヴェネツィアにはたくさんの種類の伝統的な手漕ぎ船がありますが、その中の一つで一番有名なのがやはりゴンドラでしょう。
 
 ゴンドラという言葉の語源は、古代ギリシャ語の「kondis」(=貝の意味)と、古代ペルシア語の「kondy」が、ラテン語になり「gondus」「gondula」になり、イタリア語化して「gondola」になったと言われています。
 
 単純な小舟から、ヴェネツィアで進化し、ゴンドラの特徴でもあるのが、船体の非対称です。
 船体が右側に傾いているのは、一人の船頭が最後尾の左側に立って、一つのオールで漕ぐ時に、推進力を与え進路を安定させるためです。
 
 14、15世紀のヴェネツィアでは、ゴンドラは移動の手段だけでなく、ひとつのステータスシンボルとなっていました。
 富裕層は、個人専用のゴンドラに御抱えのゴンドラ漕ぎを持ち、そのゴンドラの作りも競うように派手になっていきます。
 個人の好み、流行を取り入れ、金箔や大げさなデコレーションをほどこし、豊かさを誇示する道具となりました。
 サイズもどんどん大きくなっていき、決して広くない運河の通航を妨げるようにさえなったのでした。
 
 1492年の、コロンブスのアメリカ大陸の発見以来、世界情勢が少しずつではあるけれど、ヴェネツィアに不利に変わりつつあるのを、ヴェネツィア共和国の上層部は分かっていました。
 
 ヴェネツィア政府は、1562年ゴンドラの規制法を可決します。法律で、ゴンドラの色は黒、長さは11メートル、重さは600キログラムと決められたのです。
 
 アメリカ大陸の発見による、直接の不利益はまだほとんどなかったのですが、政府にしてみれば、ばかみたいに華美なゴンドラを作って、浮かれている場合じゃない、というところだったのでしょう。
 
 まだまだ十分に国としての力と勢いがあった16世紀に、こういう「兜の緒を締める」ような法律を施行させるところが、かつてのヴェネツィアのヴェネツィアらしいところでもあります。
(その2に続く) 






Last updated  2008/05/10 06:55:11 PM
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2008/01/23
カテゴリ:街について
 1284年に鋳造されはじめたドゥカート金貨ですが、流通の主な貨幣はそれまでもヴェネツィアで鋳造していた、大銀貨と小銀貨と呼ばれるものでした。銀の供給量が減り、金と銀の位置が逆転して金貨が主流になっていったのです。
 15世紀半ば頃、ドゥカート金貨はゼッキーノ金貨と呼ばれるようになり、貨幣としての信用と名声はもちろん、「ゼッキーノ」という言葉は、「純金」の同義語にもなったのでした。
 またヴェネツィアは、ヨーロッパの中で「国債」特に、「長期国債」を考えついた最初の国であると言われています。「モンテヴェッキオ」と呼ばれる、長期国債の利子は5%で、ヴェネツィア人だけでなく、外国の王族や貴族の間でも、この長期国債は人気がありました。何よりも価値が安定していたため、確実な投資や貯金の対象になっていったのです。
 こうして、度重なるジェノヴァやトルコとの戦争による、大きな出費にもかかわらず、ヴェネツィア共和国は他のどこの国よりも、安定した財政運営を行っていました。

 貨幣や国債の発行などに関する、その財政と政治運営にヴェネツィアの本当の「ヴェネツィアらしさ」が集約されていると言えます。つまり、最新の流行溢れるきらびやかな都、誇り高く法王にも「ノー」という大胆不敵な国は、実は地道な努力と知恵によって築き上げられた「堅実」な国であったことが、「ゼッキーノ金貨」ひとつにも体現されていると思うのです。
 それは水に浮かんでいるような、あぶなげな印象のこの街が、水面下の何千万本の「杭」で支えられている、堅牢な土台を持っていることにも似ているでしょう。
(写真はゼッキーノ金貨。左側は聖マルコにひざまづく総督、右側はイエス・キリスト)






Last updated  2008/01/24 02:26:17 AM
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2008/01/18
カテゴリ:街について
 ヴェネツィア最初の造幣局は、9世紀にリアルト地区に造られていました。13世紀にサンマルコ広場に移され、写真の建物は1540年頃、ヤコポ・サンソヴィーノの設計で建てられたものです。
 現在イタリアで、「ゼッキーノドーロ」(ゼッキーノ金貨)というと、ボローニャで行われる「ゼッキーノドーロ児童歌謡音楽祭」のことになります。古くは、『黒猫のタンゴ』など、この音楽祭の入賞曲が、幼児番組の先進国である日本でも歌われ、有名になったものもいくつか出している、児童音楽祭の名前です。
 しかし、昔ヨーロッパで、「ゼッキーノ金貨」もしくは「ドゥカート金貨」と言えば、ヴェネツィア共和国の貨幣で、それは確実さの代名詞とも言える国際通貨でした。金の純度、均一の重量は、あらゆる鑑定の基準点であり、ゼッキーノ金貨で支払うことは、即「信用」を意味し、ヨーロッパだけでなく、アフリカやアジアでも歓迎され流通していたのです。
 
 金貨や銀貨の鋳造では、時間とともにその「純度」が落ちてゆくことは、昔はいわば当たり前でした。その時の政府の不安定さと比例していたからです。ヴェネツィアより30年ほど早く、フィレンツェが鋳造していたフィオリーノ金貨も、江戸時代の慶長小判(1601年、純分86.8%)なども例外ではありません。
 これに対して、ヴェネツィアの「ゼッキーノ金貨」は、重さ3.56g、純分99.7%の24金の金貨を、1284年10月31日、ジョヴァンニ・ダンドロ48代目総督の時から、1797年(ヴェネツィア共和国終焉)ルドヴィコ・マニン120代目総督の時代まで、驚くべきほどの安定性で鋳造し続けたのです。
 時代が様々に変わっていく中で、もちろんヴェネツィアもあらがい翻弄されながら、500年以上変わらぬ貨幣の「質」を維持する政治体制をつくった、このことにヴェネツィアというかつての国の、真骨頂が実はあるのです。(その2に続く)






Last updated  2008/01/19 12:28:29 AM
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2007/12/17
カテゴリ:街について
 街というものに必ずあるのが「メインストリート」で、ヨーロッパなどでは、規模の大小はあれ、メインストリートの先に広場があり教会があるのが普通です。
 大都市になると、通りの名を聞いただけで、具体的なイメージが浮かぶような特徴ある通りが交差しあって、街を形づくっています。多くの「大通り」は、両端に店が並び、歩道に街路樹、中央には車が行き交っています。
 
 沼沢地につくられた街という、街の土台づくりから違うこのヴェネツィアには、いわゆる「大通り」といったものはありません。リアルト橋やサンマルコ広場周辺に集中する店沿いの道も、その短さからは「メインストリート」とは言えないでしょう。あらゆるところが「メイン」であり、同時に「路地裏」であるのがこの街の不思議さです。
 それでもしいて「大通り」らしきものを挙げるとすると「ストラーダ・ヌオーヴァ」でしょうか。駅からリアルトを結ぶ位置にある「新しい道」という意味のこの道は、19世紀の終わりにオーストリア人の発想で作られたものです。「大通りのあるウィーンのような」街づくりをめざしたのか、元あった住居や教会をざっくり切ったり、運河を埋め立てたりして出来たものです。
 地元の生活圏としも、観光客の通り道としても、ヴェネツィアで一番活気にあふれている「大通り」がこの程度の幅ですから、車社会でないこの街の、「人間中心」のサイズがわかるというものです。道の中には、一人の傘さえ広げたままでは通れない、細い通りもありますから。そんな小さな道から大きな通りまで、すべての道がいつでも「歩行者天国」である都市は、ここだけでしょう。

 この「ストラーダ・ヌオーヴァ」は、クリスマスが近づくと通りを露店が埋め尽くして、また独特の雰囲気をかもし出します。衣類から鍋や窯、骨董品までランダムに並んでいる露店を見ると、今年もあと少しだなあと思う、ヴェネツィアの「大通り」です。






Last updated  2007/12/17 05:51:16 PM
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