いよいよ、ツアーも最終日。
今夜は、ヴェルディゆかりのブッセートにある小さな劇場、「ヴェルディ劇場」で、デッシーとアルミリアートの夫婦カップルによる、ジョイントリサイタルを聴きました。
曲目はもちろん、オール・ヴェルディ。
「群盗」に始まり、「オテロ」「アイーダ」「ドン・カルロ」などのアリアや二重唱、合間に、ピアノ、クラリネット、フルートによる、ヴェルディ・オペラの編曲版がはさまり、アンコールはお決まりの「乾杯の歌」と「パリを離れて」。
席数300の小劇場ならではの、一体感と幸福感に包まれた夜でした。
当初の予定では、ここで「群盗」が上演されるはずだったのですが、財政難で見送りに。それが残念。
さて、今夜、休憩時間後に登場したデッシー、万雷の拍手にまずは「ありがとう」、そして「VIVA VERDI」とつぶやきました。
やっぱり、ヴェルディは、イタリア人にとって特別な作曲家。
旅に出てから何度か思ったことが、また頭をよぎりました。
イタリアでも一般的には、ヴェルディよりむしろプッチーニのほうが分かりやすくて人気が高いような気もしますし、ベルカントが好きなファンももちろんいるわけですが、やはり「VIVA PUCCINI」、「VIVA ROSSINI」とはならないのです。
昨日、モデナで「2人のフォスカリ」にすっかり興奮し、ミラノのジャーナリストD氏と、ヴェルディの初期オペラ、よく「似たようだ」といっしょくたにされてしまうけれど全然そうじゃない、「ナブッコ」と「フォスカリ」だってこんなに違う、あんなに忙しくて書き飛ばしていたのにこの充実ぶり、と話していたら、D氏、
「ほんとに「VIVA VERDI」ですよね」
というのです。
ああ、こんな時にも使うのだ、この言葉、と納得しました。
こういう感覚は、来て、体験しないと本当に分からない、と思います。
今回痛感したのですが、「ナブッコ」なんて本当に「地物」の、ローカルなオペラなんじゃないかと思います。地域言語。ドイツの「魔弾の射手」みたいな。
あるベルリン在住の歌手に、ドイツでは、オペラといえばまず「魔弾の射手」、ワーグナーよりこちらなのだ、学校でも習う、ときいたことがありますが、「ナブッコ」もそういう存在なのでしょう。
けれどヴェルディの凄いところは、そのローカル言語から出発して、グローバル言語にたどりついたところではないか、とも思います。
モーツアルトのようないわゆる大天才は、おそらく初めからグローバル言語的な音楽を書いている。
ここでいうグローバル言語というのは、音楽の世界のそれといいますか。国境を越えて、音楽のくろうとに通じる音楽のような感じをイメージしているのですけれど。
ところが「ナブッコ」となると、下手すれば手回しオルガンと紙一重?あまりにも単純で、くろうとにはやぼに映るのではないでしょうか。
このあたりが、ヴェルディが、音楽の通?にはとかく評判の悪い原因ではないかと思います。プッチーニやロッシーニのほうが、ある意味洗練されており、グローバル言語に近いといえましょう。
けれど地域言語から出発して、時間とともに進歩し、「ファルスタッフ」なんていうくろうと受けするところまで行ってしまったのが、ヴェルディなのです。
その過程を考えると、目がくらみそうになります。
そういうひとも、なかなかまれなのではないでしょうか。
とかく日本では、評論家・研究者の世界にドイツ・オペラ派(とくにワーグナー)が多く、 ヴェルディは一段下に見られがちで、しかも新聞の批評なども、イタリア・オペラの公演であろうとそのような方に書かせてしまうケースが多いのを残念に思っているのですが(ワーグナーのものさしでイタリア・オペラをはかることはできません)、昨日の「フォスカリ」のようなものを体験してもらえれば、そんな認識も変わるのにな、と感じています。
残念ながらバイロイトのように毎年あるわけでもないし、イタリアでこんな公演に出会うことは、バイロイトのチケットを入手するよりもっと難しいことだとは思うのですが・・・
年に何度か、すごい体験をしたりすごいひとに会うと「人生がちょっと変わった」と思うのですが、昨日の「フォスカリ」はまさにそれでした。
ある人気評論家が、クライバーの「ばらの騎士」の体験が決定的だったというようなことを書いていましたが、その気分がちょっと分かったような。
その彼は、むやみにオペラの公演にはきません。それも、また分かるような気がします。
VIVA VERDI !