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前回は、「想い出のアーティスト」について書きましたが、今回は、昨年一番衝撃を受けたディスクをご紹介します。 テオドール・クルレンツィス指揮、ムジカエテルナによる「フィガロの結婚」です。 クルレンツィス。1972年、ギリシャ生まれだというこの指揮者についての評判は、しばらく前から耳にはしていました。ショスタコーヴィチのディスクなども高く評価されていたようです。一昨年には2012年に録音されたこの「フィガロ」、昨年は「コジ・ファン・トウッテ」のCDが発売されました。気になっていたのですが、長い間、「積ん聴く」状態になっており、ようやく、この年末年始にかけて、全曲を聴き通すことができました。どちらも凄い演奏ですが、以下、こちらから聴き始めた分よけい衝撃的だった「フィガロ」について書こうと思います。 とにかく、衝撃でした。いままで聴いてきた「フィガロの結婚」は一体なんだったのか。私にとっては、そのようなレベルの演奏でした。 嵐のように沸き起こる序曲から「こんなフィガロ、聴いたことない」という体験の連続。音の響きもそうですし(もちろんピリオド楽器)、リズムも、アーティキュレーションも、あっ、と息をのむ瞬間ばかりが続くのです。歌手たちの即興演奏もふんだんだし(それもこれまで聴いたことのないような)、楽器のほうも負けてはいない。フォルテピアノなど、レチタティーヴォばかりでなく、アリアや重唱でも関係なくずかずかと入り込んで即興をまき散らす。それがちっとも不自然ではなく、わくわくさせてくれるのです。 歌唱法も、これまでとは違います。古楽の団体が演奏する場合、ノンヴィヴラートで歌われることが多いわけですが、それがより徹底している。結果、音楽は奏でられているのに、かぎりなく語りに近く聴こえます。声を張り上げて歌うことは一切なく、音楽に伴われている人間ドラマに徹している。 なぜ、こんな演奏が可能になったのか。それを、解説に含まれるロングインタビューで、指揮者のクルレンツィス自身が詳細に語っています。それが、すごく面白い。このインタビューだけでも、CDの定価(6000円)の何分の一かの価値があると思えます。 インタビューの冒頭でまず驚くのは、この「フィガロ」の録音が、構想から実現にいたるまで10年という歳月をかけたことです。クルレンツィスによると、フィガロを録音しようと思ったきっかけは、モスクワのホスピスでフィガロを演奏した時、そこにいた人々に「この音楽が与えた効果は、私にとって決して忘れられないものになりました」(クルレンツィス。以下同)ことだといいます。「指揮をしながら私は、この傑作を一度もきくことなく終わる人生があるとしたら?などと考えずにはいられませんでした。」 彼のそんな思いは、たんにフィガロを聴いたことがないひとばかりではなく、フィガロを知っていると思い込んでいるひとにも向けられたのです。 「そういう危険はわれわれすべてにあり得るのではないか、録音やコンサートを通じてこの作品をよく知っている人たちにもあり得るのではないか、と、つまり、モーツアルトのスコアの研究によって、そういうわたしたちの耳がなじんでいるのとはかなり異なったものが明らかになっているとしたら?」 モーツアルトのスコアを徹底的に研究し、同時に他の音楽の研究も進めることによって、できるだけ、本来あるべきフィガロの姿に到達すること。録音に当たって、それが、クルレンツィスの目的となった。それが、この録音の第一にユニークな点でしょう。 その目的のために、彼ら(クルレンツィスと、彼が創設したピリオド楽器のアンサンブル、ムジカエテルナ)が何をやったか。 「フィガロ」の自筆譜の研究はもちろんですが、「ベートーヴェンの交響曲をやり、中世とルネサンスの音楽で即興演奏を経験し、モーツァルトにもどってたとえばピアノ協奏曲の第23番をやり」、さらに、「モーツアルトと彼の同時代の作曲家たちの作品のファクシミリ版を収集するという作業も始めました」 そこまで徹底したやり方を進めるうち、何が見えてきたか。 「そういうスコアを長年にわたって研究しているうちに、私たちは、モーツァルトがはっきりと書き表している意図と、私たちが聞き慣れている演奏との間の食い違いを見つけて何度も驚くことになりました」 「私たちが聞き慣れているものは20世紀のオペラの伝統に根ざしていますが、それは要するに物事を単純化するという伝統です。その伝統のおかげで、オーケストラはリズムや強弱法といった複雑なことに無頓着でいられるようになりました」 一例をあげれば、むらなく美しい音=美しい、という価値観でしょう。 このあたりのことは、ピリオド奏法を積極的に展開している演奏家や、それになじんでいる聴き手には当然のことといえるでしょうが、クルレンツィスのやり方は、より徹底しています。 「この録音では、初めてちゃんと録音されたそのような部分を数多く聴くことができると思います。(中略)私たちは、そうした細部に注意を向けることによって、どこかの素晴らしいアーカイヴ、書庫のなかで幸せに暮らす虫に、古い紙を大喜びで味わい、その複雑な香りを吸い込んで楽しむ、飽くことを知らない虫に、なりたいと思ったのです」 研究者のような態度ですが、彼のやり方は、同時に創造的でもあります。スコアにないことも、わざわざ取り入れている。それは研究から彼が汲み取った成果であり、同時に霊感の賜物でもあります。「フィガロ」の初演時の演奏ではやらなかったようなことも、音楽を生かすためにあえて取り入れている。ただしそれはあくまで場面にふさわしいからであり、たんなる思いつきではありません。 「音楽演奏に関して歴史的真正さをどうこう言うのは無意味だと考えています。モーツアルトが実際に耳にしていたサウンドを知ることは、彼の肌の感触を知ること同様、不可能です」 「モーツアルトの場合、私たちは時代楽器またはレプリカを使います。歴史的真正さに近づけるからではなく、それらの楽器がもたらす(中略)サウンドが、この音楽のスリリングな感じをフルに表現してくれるからです) これも、多くの音楽家に共通する認識だと思いますが、その先どうするか、という段になって各人の個性が発揮されます。たとえばクルレンツィスはこんなことをやる。 「 普通のピリオド演奏の枠組みからは外れている、リュート、ギター、ハーディガーディといった楽器も使いました。それらの楽器はモーツアルトの時代にはまだ演奏されていましたが、オーケストラでは使われていませんでした」。 そんな楽器も、場面によっては、効果を考えて取り入れてみるのがクルレンツィス流です。たとえば、音楽により田舎らしい雰囲気を与えるためにハーディガーディを使ったりする。 「歴史的真正さという点からは、これらの楽器を使うのは間違っているかもしれませんが」、「私たちは単にモーツアルトのサウンドだけを再現したかったのではなく、それと同時に、音楽を本当の意味で生き生きしたものにするために、その登場人物たちが存在している空間や、彼らが呼吸している時代の空気までも再現したいと思ったのです」 モーツアルトの「時代の空気」。そこには「革命」がありました。そのことについて、そして「革命」と「フィガロ」との関連について、クルレンツィスは鋭い洞察を示しています。「フィガロ」はまさに(フランス)革命の申し子であり、「革命的」な作品だった。内容においても音楽においても。だから彼の演奏する序曲は、革命前夜のように聴こえるのかもしれません。 クルレンツィスの言葉があまりにも魅力的なので、つらつらと引用してしまいました。が、個人的にこの演奏が、自分がこれまで聴いた「フィガロ」とどこが違うのか、一言で言えと言われれば、 「自然」 だ、ということでしょう。 これほど徹底的に考え抜かれた「フィガロ」が、なぜ「自然」なのか。 以下はまったく個人的な好みと照らし合わせた上の意見なので、そのことをご承知のうえお読みいただければ幸いです。 繰り返し書いているように、私はオペラ作曲家ではヴェルディが一番好きです。1にヴェルディ、2、3、4がなくて5がモーツァルトといったところでしょうか。念のために申しますが、あくまで「好き嫌い」です。凄い凄くないではありません。(以前「モーストリークラシック」誌で、好きなオペラ10選をあげるという特集記事で10作すべてヴェルデイにしましたが、好き嫌いではなく、凄い作品をあげろといわれたら、全然別のリストになると思います。「ペレアスとメリザンド」とか「ボリスゴドゥノフ」といった作品も入るでしょう) ヴェルディが「好き」な理由のひとつは「シンプルイズベスト」。最小限の音でドラマを表現できるところです。それに慣れてしまうと、他の作曲家は饒舌に感じられてしまうのです。お叱りを承知でいえば、(簡潔でいながら凝っている)モーツアルトですら「音楽がまさりすぎ」と感じてしまうのです(このことは、拙著「ヴェルディ」(平凡社新書)のあとがきにも書きました)。 ところが、クルレンツィスの「フィガロ」は、音楽が勝っているという感じがほとんどしないのです。過激なのにとても自然。今そこで繰り広げられている人間ドラマを見ているような。これこそ、モーツアルトの時代にあり得た、少なくともこれまでの演奏のなかでもっとも近づいた部類の演奏なのではないだろうかと感じられたのでした。 やはりこれは、画期的な演奏なのではないだろうか。 きわめて個人的な基準で恐縮ながら、そう思った次第です。 ちなみにクルレンツィスのヴェルディ、「マクベス」のDVDを持っていました(パリ、オペラ座)。チェルニャコフの演出が苦手で音楽はあまり聴けていなかったので、引っぱりだして再見しました。オペラ座ですから当然ピリオド演奏ではないですが、やはり面白い。ところどころ「おっ」(こんなことしている!)と思います。そしてボーナストラックのインタビューで、ヴェルディに関して言っていることがまた腑に落ちてしまった。「楽譜はシンプルです。けれどその奥へ下りて行くと、ヴェルディが意図している鉱脈を探り当てることができる」。そんなような内容ですが、まったくその通りだと思うのです。 ギリシャ生まれながらロシアが本拠で、パルミという街のオペラハウスで活動しているクルレンツィス。80年代生まれの指揮者がどんどん出てきている今では、若手、という範囲からは抜け出ているかもしれません。ですが、近い将来、チューリヒで「マクベス」を振るという。これはぜひ行かなければと、心に決めてしまったのでした。 「フィガロ」、CDの情報はこちらです。 http://www.hmv.co.jp/news/article/1312250042/
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最終更新日
January 6, 2015 03:43:43 PM
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