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加藤浩子の La bella vita(美しき人生)

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February 28, 2022
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カテゴリ:音楽
藤沢市民オペラが上演した、ヴェルディの「ナブッコ」を観劇してきました。
 2020年に上演される予定だったものが、コロナ禍で延期されていた公演です。
「ナブッコ」はヴェルディの3作目のオペラで、最初の成功作であると同時に、名声を決定的にした重要なオペラです。初期ヴェルディの多くの作品に共通する特徴として合唱が重要で、市民オペラである以上市民の方々の合唱団なので、やはりなかなか上演に踏み切れなかったのですね。このたび実現が叶い、キャストの方々をはじめ、関係者の皆さまのお喜びはどれほどかとお察しします。
 本当に素晴らしい上演でしたから、ご苦労は実ったのではないでしょうか。

 「ナブッコ」というオペラ、ヴェルディ作品の中ではかなり人気が高く、特にイタリアでは、「第二の国歌」と言われる有名な合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」があることもあり、良く上演されるオペラですが、なかなか難しい(いつもいい上演になるとは限らない)部分のある作品です。旧約聖書の、アッシリアの暴君王ネブカドネザルがユダヤ人を連行した「バビロン虜囚」のエピソードに基づいた、聖書物語+オペラというオラトリオ風な作品なので、ストーリーはやや「場面」重視で整合性に欠け、展開は時に唐突。演出するのがなかなか難しいのです。あってないような演出、いや、正直なところ何もしていない(ように思える)演出も珍しくありません。「行け、我が想いよ」が囚われのユダヤ人の合唱なので、時代を現代に近づけて、この合唱をナチに迫害されたユダヤ人の合唱にしてみたりとか。これから、ナチの代わりにプーチンが登場する演出が出てきそうですが。。。
音楽も、若きヴェルディの勢いある才能が漲る作品ながら非常にシンプルなので、演奏次第では野暮になりかねません。また、パワフル(なように感じられる)でまっすぐな分、強い声で歌われるとかっこいい(と感じられる)ので、強い声の歌手が起用されることが多い作品です。けれど「ナブッコ」が初演された1842年という時代は、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニと来ている「ベルカント」の余韻がまだ残っている時代。「ナブッコ」の主役たち、特にアビガイッレという悪役ヒロインにはベルカント的な装飾歌唱が求められており、力でグイグイ押すタイプの歌手だと、装飾歌唱が本当に当て歌いになってしまって美しくない。それより何より、装飾歌唱がきちんと歌えていなかったりする。初演でアビガイッレを歌ったジュゼッピーナ・ストレッポーニはベルカント的な美質を持った歌手だと伝えられており、ヴェルディが彼女の声を全く無視して書いたとは思えないので(もっとも、調子を崩していた彼女にはこの役は合わなかったようですが)、力で歌い切るより、ややソフトな声であってもベルカント的な面をきちんと歌える歌手の方が合っているのではないか、と前々から思っていました。
 そういう歌手が全くいないわけではないのですが、全てのキャストをそういうタイプで揃えるのが難しそう、というのが、イタリアを中心に「ナブッコ」を何度も見てきた感想です。1、二人はベルカント的なタイプの歌手が一人、あるいは二人三人いても、全部がそう、というケースにはなかなかお目にかかれない。考えてみれば今はロッシーニ・ルネッサンスの結果ベルカント歌手は豊作で、揃えられないことはないと思うのですが。。。
オーケストラも、ただキレがよく力強いリズムを強調してぐいぐい押すだけではつまらない。もっと歌って!もっと繊細に!と言いたくなる演奏が時々あります。「ナブッコ」はまだまだベルカントなのですから。
とはいえ、「ナブッコ」のオーケストラに関しては、指揮者次第でかなり素晴らしい演奏に遭遇できます。今やベルカント中心に大活躍のリッカルド・フリッツァを初めてきいて震え上がったのもジェノヴァの「ナブッコ」でしたし(2004年)、ミケーレ・マリオッティを初めてきいて吹っ飛んだ(失礼!)のもパルマの「ナブッコ」でした(伝説の名演らしい。2010年)。マリオッティは2013年にボローニャで聴いた「ナブッコ」も素晴らしかった。彼らの演奏に共通するのは(もちろん個性は違いますが)、歌心、繊細さ、思い切りの良さなどなどでしょうか。マリオッティが振った「序曲」なんか、地の底から湧き上がってくるような勢いと、軽やかさが同居した絶妙の音楽でした。
ちなみにあのバッティストーニの日本デビューが二期会の「ナブッコ」で、これまたみんな吹っ飛んで語り草になったのは、ご存知の方もあるでしょう。

話がそれました。
藤沢市民オペラは、1973年に遡る市民オペラの老舗。日本は市民オペラ、区民オペラのレベルが高いのですが、藤沢はその象徴と言ってもいいでしょう。2018年から、日本を代表するオペラ指揮者として期待され、特にイタリアオペラに強い園田隆一郎さんが、音楽監督を務めています。園田さんは「ロッシーニの神様」アルベルト・ゼッダの薫陶も受け、ロッシーニやベルカントにも強い指揮者として知られています。その園田さんが「ナブッコ」を振る。期待しないではいられません。
果たして、期待以上の演奏でした。とにかく方向性が明らかで、スタイルが徹底していた。それが、ヴェルディの音楽をきちんと読み込んだ結果だったのは、いうまでもありません。
ヴェルディ、特に初期のヴェルディのオペラは、繰り返しですがシンプルで強い音楽だという印象があります。それは決して間違いではないのですが、楽譜にはデュナーミクが細かく指定されていて、特に弱音が多いのです。単に勢いのいい音楽なのではなくて、繊細な表情のある、人間味のある音楽なのです。
園田マエストロは、そこをきちんと押さえていました。ていねいで細やかな音楽作り、特に弱音の(弱音の多さは、客席にいたら気付いたはず)表情の豊かさ。なめらかなレガートとふくよかなフレージング。シンプルな音楽の行間に潜む歌心と細やかなドラマ。そういうものをきちんと再現し、伝えてくれていたのです。特にオペラの(おそらく)本当の主題である父と娘の葛藤の部分は、とても美しかった。初期ヴェルディは粗野でも荒削りでもない。ロッシーニの影響(アンサンブルフィナーレなど)もきちんと見せながら、その中から立ち上がる、これぞ初期ヴェルディと言えるユニゾンの音楽の面白さも伝えてくれる。イタリアでも是非この路線でやってほしい、そう思える、一貫した美学のある音楽でした。
藤沢市民交響楽団も、マエストロの指示によくついて行っていたと思います。特に、これもヴェルディの魅力と言える低弦の充実ぶりは際立っていました。藤沢市合唱連盟の合唱も美しく劇的な響きで健闘していましたが、マスクでの歌唱だったのが(致し方ないとはいえ)残念でした。

歌手陣は充実の一言。主役から脇役まで隙がなく、名前のある人が揃って豪華(オーデションをやって選ばれたのですが、日本を代表する面々ばかりなのです)。しかも、いわゆる大声歌唱で吠える方が全くおらず、かなりベルカント的な方向性で統一されているという、理想的な布陣でした。イタリアでなく日本でこれが実現されたことに、大きな驚きと喜びを覚えないではいられません。園田マエストロの解釈も大いに影響しているのではないかと思います。本当に指揮者って重要!
タイトルロールの須藤慎吾さん、美しく表情豊かなバリトンの声、豊かな響き、よくコントロールされた弱音。今回の演出(出色。後述)では、ナブッコは初めから狂っている設定なのですが、「いっちゃっている」演技力も抜群です。最後に正気に近づいた王も、堂々たるものでした。
アビガイッレ中村真紀さん。初めて聴かせていただきましたが、とても柔らかくシルクのような手触りのある声。それほど強さはないのですが、個人的にはこれでもいいというかかなり好みです。アビガイッレは決して猛々しい女性ではなく、傷ついた弱い女性なのですから。。。技術的な傷は皆無ではなかったですが、装飾歌唱は高いレベルでこなしていらして好感が持てました。最後の死のシーンも熱演で、客席からは啜り泣きの声も。アビガイッレの死のシーンで啜り泣く声を聞いたなんて初めてです。これも演出の勝利。
フェネーナ中島郁子さんは、素晴らしくコントロールされた彫りの深い声で、落ち着いた大人の女性フェネーナに忘れがたい輪郭を与え、イズマエーレ役清水徹太郎さんは素晴らしくリリカルで甘く、よく通りながらスタイル感のある声で、これまた忘れがたいイズマエーレを造形。決して大役とはいえないイズマエーレがここまで印象的だった「ナブッコ」の舞台は初めてです。ベルの祭司長杉尾真吾さんの若々しく張りのあるスタイリッシュなバスも聞き応え満点で、アンナ役谷明美さんも美しく表情のある声で存在感たっぷり、アブダッロ役平尾啓さんも好演。ザッカーリア役のジョン・ハオさんは声が飛ぶまでにちょっと時間がかかりましたが、エンジンがかかってからは格調と威厳のあるバスで、キーロールとも言えるこの役に存在感を与えていました。
このキャスティング、脇役まで本当に第一線で活躍している方々ばかりなのです。どこへ出しても恥ずかしくない、と言いたくなるレベル。

 そして今回の上演を類稀なる舞台へと押し上げたのが、岩田達宗さんの演出です。
 上に書いたように、「ナブッコ」の演出というのはおざなり(に見える)ものが多い。ほぼ突っ立っているだけ、というプロダクションも少なくありません。
 岩田さんはまさに行間からドラマを立ち上げました。これほど動きの多い「ナブッコ」の舞台は見たことがありません。登場人物は台本通りに、おざなりに唐突に登場するのではなくて、必然があってその場にいます。ナブッコは最初から狂人で、突然狂ったわけではありません。だからこそ、娘の命の危機に直面して正気を取り戻す成り行きに説得力が出てくるのです。フェネーナは終幕になって突然、処刑台に向かう姿を現すのではなく、第3幕からすでに皆と引き裂かれて牢獄へ連れ去られます。だから最後に処刑台へ向かう場面もつながるのです。みな、必要な時は舞台にいて、自分の歌がない場面でも演技をしている。最後は正気に返ったナブッコをはじめ、対立していた一同が同じ方向を見るのです。後悔し、不幸で、死を選んだけれどおそらく救われるアビガイッレとともに。それは感動的な場面でした。対立から融和へ。
 実は、最後の合唱「偉大なるエホバ」は、「ナブッコ」初演の時にアンコールされた合唱です。初演の時に「行け、我が想いよ」がアンコールされて熱狂を巻き起こした、という有名な伝説はフィクション。(それをここに書いている余裕はありませんが、ご興味のある方は拙著『ヴェルディ』(平凡社新書)をご参照いただければ幸いです)。で、確かに、「偉大なるエホバ」は感動的な曲だ!と今回思い知らされたのでした。
ロシアのウクライナ侵攻という野蛮な行為が行われてしまったこの時にこの「ナブッコ」が上演されたことは、ほとんど奇跡です。コロナによる延期は、天啓だったのかも知れません。

「ナブッコ」は人類の原点。演出の岩田さんは、プログラムにそう書かれています。なぜか知りたい方は、ぜひ公演にお運びください。今週の週末も公演があります。

藤沢市民オペラ「ナブッコ」





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最終更新日  February 28, 2022 05:10:08 PM


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