マイケル・シェンカー
僕たちより上の世代のギター弾きにとっては「神」のような存在なのですが、ここんとこずっと表舞台から遠ざかっているので、20代以下の人たちには馴染みが薄いかもしれません。とにかく、70年代半ばから80年代半ばまでのマイケル・シェンカーのギター・プレイは、神がかっていたのです。1955年1月10日、ドイツのサーステッドに生まれたマイケルは、幼い頃から兄ルドルフの影響で音楽を聴き、9歳でギターを弾き始めます。そして、ルドルフが結成したバンド「スコーピオンズ」に参加し、1972年にアルバム『恐怖の蠍団』でデビュー。ツアー先で出会ったフィル・モグに見初められ、彼のバンド「UFO」に引き抜かれてロンドンに渡ります。UFO時代には6枚のアルバムを残し、中でも『現象(1974年)』に収録の「ドクター・ドクター」「ロック・ボトム」は超名曲。このアルバムから、彼の代名詞ともいえるギブソン「フライングV」のギターを使用しています。聞くところによると、ルドルフが使っていたフライングVをむりやり譲ってもらったそうです。渡英当時10代だったマイケルにとって、言葉の壁は厚かったに違いありません。UFOが次第に商業的に成功していくにつれ、プレッシャーからマイケルはアルコールとドラッグに溺れ、失踪することもしばしば。あまりの酷さに見かねたフィル・モグは、1979年にマイケルをUFOから解雇します。ドイツに戻ったマイケルは、ウリ・ロートが脱退したばかりのスコーピオンズに再び加入、『ラブ・ドライブ(1979年)』を発表してこのまま安定するかと思いきや、ツアー中に再び失踪。バンドからも脱退。アメリカに渡り、当時ジョー・ペリーが脱退していたエアロスミスに迎え入れられますが、数回のジャムセッションでヤバい人物だと見破られたのか、夢のコラボレーションは残念ながら破綻してしまいます。己の道はソロアーチストしかないと感じたマイケルは、ヴォーカルにゲイリー・バーデン、ドラムスにサイモン・フィリップス、キーボードにドン・エイリー、ベースにモ・フォスターを迎え、「マイケル・シェンカー・グループ(MSG)」を結成。1980年にデビューアルバム『神(帰ってきたフライング・アロウ)』を発表しました。一曲目の「アームド・アンド・レディー」はスピーディーにドライブする佳曲。インストゥルメンタル曲の「イントゥ・ジ・アリーナ」は印象深いリフとテクニカルなアドリブソロが光ります。本作でマイケルは完全復活したと誰もが思いました。翌1981年にはドラムスにコージー・パウエル、キーボードにポール・レイモンド、ベースにクリス・グレンを迎え、アルバム『神話』を発表。天才ドラマー・コージーの参加は大きく、全曲を通してマイケルのギターとの壮絶なアンサンブルを生み出しています。1982年、スター・ボーカリストを望むマネジメント側の意向からゲイリーを解雇し、「HM界の横山やすし」ことグラハム・ボネットが加入するも、コージーとポールが相次いで脱退。ドラムスをテッド・マッケンナに代えてアルバム『黙示録』を制作。レディング・フェスティバルへの出場も決まり、本番のステージを明日に控えた初めてのライブで事件は起こります。歌詞を覚えていなかったグラハムはカンペを用意。しかし、開始と同時にファンがステージに押し寄せてきてカンペが行方不明。混乱したグラハムは、カンペを求めて客席に乱入。熱狂した観客に衣装を剥ぎ取られてグラハムは更に混乱。ステージに戻ったときには何とフルチン状態。激昂したグラハムは舞台袖に逃げ込み、そのままアメリカに帰って、アルバム発売前にしてこの布陣は短命に終わりました。翌日のレディング・フェスティバルは、クビにしたゲイリーに頭を下げて出演してもらいましたとさ。1983年は『限りなき戦い』を発表。これもなかなかの好盤でツアーも好評でしたが、一部でアル中ヤク中失踪癖が再発との噂。マイケルは再び表舞台から姿を消します。1987年に僕たちが再びマイケルを目にした時、横には変な髪形の見慣れない人物が。彼の名はロビン・マコーリー。新しいヴォーカルだそうです。バンド名も「マコーリー・シェンカー・グループ(MSG)」になりました。このコンビで、1992年までに5枚のアルバムを発表します。全盛期のプレイを知っているだけに期待はずれの感は否めませんが、今あらためて聴けば、けっこう良いアルバム群です。この時期、シャーク・アイランドのリチャード・ブラック(Vo)、LAガンズのトレーシー・ガンズ(Gt)、ヴィクセンのシェア・ダーセン(Ba)、ラットのボビー・ブロッツァー(Ds)とマイケルによるプロジェクト、「コントラバンド」としての活動も行い、同名のアルバムを1991年に発表します。いかにマイケルがミュージシャンからリスペクトされているか判ります。1993年には、アンプラグドブームに乗って個人名義でアコースティックアルバム『サンキュー』を発表。同年、何と再結成したUFOに参加。1994年には日本公演も果たし、1995年にはアルバム『ウォーク・オン・ウォーター』を発表。しかし、アメリカツアー中にマイケルはUFOを脱退してしまいます。1996年、MSG名義で『リトゥン・イン・ザ・サンド』を発表。ヴォーカルのレイフ・スンディンをはじめ、北欧系の若手をメンバーに。1998年、再々結成したUFOで来日するも、4月24日の東京公演中、突然マイクを握り「もう無理。ごめん」と言ってギターを舞台に叩きつけて帰ってしまいます。またやっちゃいました。この時マイケル43歳。。。1999年から2002年にかけて、ヴォーカルをころころ変えたり、インストアルバムを連発したり、泥酔状態でステージに出たり、ライブの一曲目の途中で帰っちゃったり、UFOに参加したり脱退したりで迷走を続けるマイケル。挙句の果てに、所有機材や家財一式をネットで売りに出した、と思ったらこれが本人の与り知らない詐欺で無一文になってしまいました。貧窮極まったマイケルは、自身のトレードマークともいえるツートンカラーのフライングV三本を次々とネットオークションに出品します。落札価格は18,000ドル、20,000ドル、25,600ドル。これでも焼け石に水だったようで、一時間200ドルでギターレッスンを開業したりします。また、バーで流しのギタリストをしていたところ、警官と揉み合い肩を脱臼、そのまま拘留。どこまで落ちぶれるのか、マイケル。2003年には、久々の佳作『アラクノフォビアック』を発表。ヴォーカルはクリス・ローガン。マイケルの代わりにジェフ・ワトソン(!)がソロを引いている曲もあります。また、エイミー・シュガーという女性と The Schugar/Schenker Project という「ブラックモアズ・ナイト」みたいなユニット(音源は聴いていませんが)を結成します。これもすぐにポシャり、MSGのアメリカ・欧州ツアーが翌年にかけて何とか無事に行われました。2005年、多彩なゲストプレイヤーを迎えて作られたカヴァーアルバム"Heavy Hitters"、歴代ボーカリストを一堂に会して作られる"Tales of rock and roll"など、MSG始動25周年企画が続々と進行しています。マイケルは再び神になれるのか。こればっかりは本人次第でしょう。陰ながら応援しています。公式サイト:http://www.michaelschenkerhimself.com/