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時代劇の主題のひとつに『仇討ち』または『敵討ち』があります。
ある仇討ちが成功して、それで終わりならばいいのですが、今度は討たれた側の肉親が『仇討ち』を行う場合があります。 いわゆる『復讐が復讐を呼ぶ』または『復讐の連鎖』です。 これは、国家間でもよくあります。 フランスの首都・パリの郊外にベルサイユ宮殿があります。 ここは、エッフェル塔とともにパリ観光の両横綱です。 そのベルサイユ宮殿の中に『鏡の間』という部屋があります。 部屋といっても、日本のワンルームマンションが、はたしていくつ入れるか見当もつかない広さです。 実は、私の初めての外国旅行がフランスでした。 エッフェル塔とベルサイユ宮殿を見ているはずなのですが、もはや記憶にありません。 当時も『初めての外国旅行』ということで、夢遊病患者のようであったかも知れません。 『鏡の間』の前に立ち、「ここがあの鏡の間か」と感慨にふけったのだけは覚えています。 これも「覚えている」と思い込んでいるかも知れません。 この『鏡の間』はヨーロッパの近代史に2度も重要な目撃者となっています。 いまから89年の1919年6月28日、世界大戦の連合国とドイツの講和条約が『鏡の間』で調印されました。 この6月28日という日、そして『鏡の間』という場所は、連合国、特にフランスのドイツに対する復讐と考えられます。 調印式のちょうど4年前、1914年6月28日、現在のボスニア共和国の首都・サラエボで当時のオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されました。 これが導火線となって、ヨーロッパ中が世界大戦という戦火に巻き込まれました。 (当時は『第一次世界大戦』とは呼びませんでした、念のため) このサラエボでは、1984年、『平和の祭典』冬季オリンピックが開催されました。 ボスニア内戦の戦場となるのは、オリンピックのわずか8年後です。 調印式のちょうど49年前、1871年1月18日、ドイツ帝国の成立宣言が『鏡の間』で行われました。 18世紀末までのドイツは小国家が乱立する分裂状態でしたが、ナポレオンに刺激されて、統一への道を歩み始めました。 1866年、統一の障害であったオーストリアを破りました。 続いて1871年、フランスを撃破しました。 そして、ドイツ帝国が成立しました。 問題は、その式典を自国でなく、敗戦国のフランスで行ったことです。 当時のフランス人には大変な屈辱であったでしょう。 さらにアルザス、ロレーヌをドイツに割譲しなければなりません。 学校での授業がフランス語からドイツ語に変わりました。 これが、フランスの対独復讐熱に火をつけました。 ドイツ統一の立役者はビスマルクでしたが、これは大きな失敗でした。 これでフランスはドイツへの復讐を果たしたつもりでしたが、21年後にドイツから『お返し』をされます。 その話は11月11日になるでしょう。 蛇足ですが、国際法では講和条約が発効されなければ、戦争は終結しません。 したがって、太平洋戦争の終結は、1945年9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏文書調印ではありません。 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により終結したのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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