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今日は12月14日、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日です。
当時は日の出から翌日の日の出を『1日』と認識していたため、実際には12月15日の早朝です。 以前は不景気でも、『忠臣蔵』を興行、映画化すれば、必ず大当たりでした。 わずか300年前の事件ですが、よほど日本人の感性にあったようで、すっかりDNAにしみこんだようです。 ところが、日本で一ヶ所だけ、『忠臣蔵』がご法度な地があります。 ほかならぬ、吉良上野介の領地であった愛知県幡豆郡吉良町です。 これまでの日本の一般国民は、芝居の『忠臣蔵』をもとにして、松の廊下刃傷から吉良邸討ち入りまでを語ってきました。 それは『三国志演義』によって、中国の三国時代を語ると同じです。 いずれも虚構が真実が多くなっています。 なぜ、浅野内匠頭が切りつけたのかは、いまだに不明です。 当時は、「人間より犬を大切にせよ」と命じる将軍の時代でした。 その将軍への恨みが吉良上野介にすり替わったともいわれています。 それにしても、吉良上野介、吉良家、そして吉良町の住民からみれば、とんだ災難であり、大迷惑です。 同じように時の権力者に嫌われたため、冷遇された事例は他にもあります。 幕末では会津若松と彦根です。 会津若松は新政府軍に最後まで抵抗したこと、彦根は『安政の大獄』時の大老・井伊直弼のためです。 現在の東海道本線と北陸本線の分岐点は米原です。 当初は彦根が有力地でしたが、井伊直弼の居城であったため、米原に奪われたといわれています。 300年前であろうと140年前であろうと、歴史の怨念は世代を超えて、受け継がれます。 いまだに「子孫たちが仲直りした」がニュースに出るほどですから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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