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1905年1月9日(ロシア暦)、当時のロシア帝国の首都ペテルブルクで軍隊が労働者の行進に発砲し、千人以上の死者が出ました。
『血の日曜日事件』と名付けられた事件は、他にもありますが、今回はこの事件を取り上げました。 当時のロシアは前年から始まった日露戦争による経済困難で、国民生活が苦しくなっていました。 さらに皇帝による専制政治により、国民の自由は圧殺されていました。 この状況を改善するために、ペテルブルクの労働者6万人が皇帝の住む『冬宮』へ向けて行進を開始しました。 その行進の目的は『抗議』でなく『請願』でした。 『請願行進』の指導者はガボンというロシア正教の神父です。 ガボンはロシア国家秘密警察の工作員であったともいわれています。 この行進は『ガス抜き』のための『官製デモ』であったかもしれません。 行進は平穏に終わるはずでしたが、事前の連絡が悪かったのか、冬宮警備の軍隊が行進の労働者に向けて発砲しました。 この発砲による犠牲者の正確な数は、現在でも不明です。 ガボンは、すぐロシアから逃亡しました。 同年10月、ロシアへ戻ったガボンは革命派から『裏切者』として暗殺されました。 この事件は偶発的なものであったかも知れませんが、犠牲とその後の影響は大きなものでした。 ロシア国民の『皇帝崇拝』の幻想は打ち砕かれました。 ある革命家は、この事件を評して、「わずか数時間のできごと(血の日曜日事件)が数年におよぶ革命教育以上の効果があった」と語っています。 ロマノフ王朝のロシア帝国の崩壊は、この事件の12年後に迫っていました。 おそらく、当時のロシアの権力機構は、この事件にたいして本気には対処しなかったでしょう。 「やつらにどれほどの事ができるか」と思っていたでしょう。 いわゆる『革命派』も、自分たちの力を認識していなかったかも知れません。 しかし、歴史の流れは、双方の思惑など無関係、かつ非情でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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