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天保12年(1841年)5月15日、江戸幕府は、筆頭老中の水野忠邦の主導で、享保の改革、寛政の改革に続く三度目の改革に着手しました。
家康の幕府創設から238年、幕府の屋台骨には『ガタ』がきており、旗本、御家人の『タガ』は緩みきっていました。 その建て直しのため、最初の意気込みはすごかったのです。 しかし、あまりに性急な手段を取ったため、江戸市民ばかりでなく、武士階級にまで、反対の声が高くなり、わずか2年で挫折しました。 時代劇で人気がある『遠山の金さん』は、この改革当時の江戸北町奉行でした。 同僚ともいうべき、南町奉行の鳥居甲斐守忠耀(ただあき、又はただてる)は容赦のない江戸市中取り締まりを行いました。 それに対して、『遠山の金さん』は可能な限り、取締りを骨抜きにしました。 それが、いまだに人気のある要因かも知れません。 おそらく、鳥居甲斐守忠耀は江戸市民に嫌われ、憎悪された、唯一の町奉行でしょう。 江戸市民は、彼の本名と官職名をつなげて、『耀甲斐』つまり『妖怪』と呼んだほどです。 改革とは、難しいものです。 手ぬるくては、効果はあがりません。 厳しくすると、反対者ばかりが増えてしまいます。 いわゆる『総論賛成、各論反対』です。 そういえば、その様子は、ごく最近も目にしましたね。 改革の旗振り役の息子が、野党でがんばっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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