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元文元年(1736年)8月12日、江戸南町奉行の大岡忠相が勘定奉行に任命されました。
大岡忠相は中級の旗本に生まれ、多くの幕府の役職を経験しました。 享保2年(1717年)、40歳で江戸南町奉行に就任しました。 当時は40歳代での町奉行就任は例がなかったため、八代将軍・吉宗の抜擢人事であると言われていますが、それを否定する説もあります。 大岡忠相は、『大岡裁き』などから『名裁判官』のイメージが強いですが、実際には江戸市民全般の行政を担当する行政官というべきでしょう。 さらには、警察行政も担当していましたから、現在でいえば、東京都知事、警視総監、東京高等裁判所長を一人で担当していました。 そして、江戸幕府の最高裁判所ともいうべき『評定所』のメンバでもありましたから、現在の最高裁判所判事も兼任していました。 『抜擢人事』でなくても、その町奉行を19年もつとめたことは、優秀な人物であったことを否定はできないでしょう。 19年という在任期間は、都知事でいえば5期20年に相当します。 鈴木俊一(1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)まで)の16年間を超える長さです。 経済政策で江戸の有力商人たちと争っている途中に勘定奉行に変わったため、有力商人たちが幕府に対して『働きかけ』をしたという説があります。 寛延元年(1748年)、三河国(現在の愛知県東部)で一万石の領地を拝領し、大名となりました。 大名の大岡家は、代を重ねて、明治維新を迎えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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