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寛永12年(1635年)5月28日、江戸幕府は、日本人の海外渡航の禁止、および国外在住日本人の帰国禁止を発令しました。
歴史の教科書では『鎖国令』という名称が使われています。 それは複数回に分けて発布された法令に対して、後世の歴史家が付けた総称です。 あの悪名高き『生類憐れみの令』も、そのような法令が単独でだされたことはありません。 漁民、沿岸航行の船員が暴風で漂流後に帰国した場合は、取調べを受けた後に故郷へ帰ることが許されました。 天明2年(1782年)、大黒屋光太夫は、故郷の伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)から江戸へ向う途中、暴風で、現在のアメリカ領アムチトカ島まで流されました。 その後、カムチャツカ半島へ渡りました。 しかし、望郷の思いがつのり、帰国の許可を得るため、当時のロシア帝国の首都ペテルスブルグ(現在も同名)までシベリヤを横断しました。 彼の帰国嘆願を聞いたロシア皇帝エカテリナ二世(女性)は、彼の話に感動して、即座に許可を与えたといわれています。 光太夫は、伊勢白子を出帆してから9年後に帰国できました。 江戸で屋敷を与えられて比較的自由に生活し、文政11年(1828年)に死去しました。 一度だけですが、伊勢白子へ帰郷しています。 頭脳明晰、沈着冷静であったと思われる光太夫の見聞は、桂川甫周、大槻玄沢の蘭学者を通して、日本の蘭学発展に寄与したのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.05.27 23:19:59
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