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慶安4年(1651年)7月23日、由井正雪、丸橋忠弥が進めてきた幕府転覆計画が関係者の密告により発覚しました。
由井正雪は、これまで幕府が進めてきた『大名取り潰し政策』によって発生した大量の浪人救済を、幕府転覆計画の目的としていました。 当時は、徳川三代将軍・家光が死去した直後で、後を継いだ家綱は11歳の幼君で、しかも病弱でした。 古来より、幼君がたつと天下が乱れると言われてきました。 この危機感は、幕府首脳も持っており、迅速に対応した結果、転覆計画を未然に防止できました。 当時の『連座制』により、転覆計画に関与した本人の家族、親戚、友人までが、死刑を含む苛酷な処罰を受けました。 これ以後、幕府は大名に対する政策を緩和して、浪人の発生を極力へらしました。 さらに、浪人の再仕官(再就職)の斡旋を行いました。 間接的にではありますが、由井正雪の目的の一部は達成されたというべきでしょう。 この転覆計画の『黒幕』として、紀州和歌山・御三家の当主徳川頼宣に疑惑の目が向けられました。 頼宣は『南龍公』と呼ばれ、豪気闊達な性格でした。 俗説では、頼宣は、病弱な四代将軍家綱に代わって、将軍になろうとしたといわれています。 寛文11年(1671年)、慶安の変の20年後、頼宣は68歳で死去しました。 頼宣が持っていたかも知れない『天下』への夢は、死去の45年後に達成されました。 享保元年(1716年)、孫の吉宗が32歳の若さで八代将軍に就任したのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.07.22 22:22:07
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