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カテゴリ:いたづらにむつかしい刑法
裁判所における事実認定が実体的真実に基づかなければならないことは確かにそのとおりなんですが、だからといって、直ちに、証人に対して「実体的真実を証言しろ」と命令しなければならないとまではいえないと思います。
何が真実かってことは、証人の証言も含め数々の証拠から事後的に裁判官が判断することであって、証人が独自に「真実は何か」を判断した上で証言する必要はないと思います。だから、証人が体験時に「BがAを殺すところを見た」と認識したが、事件後の報道や周囲の人の話を聞いていると、どうやらCが犯人だというのが真実に間違いないと確信するにいたった(で、後日裁判官により実体的真実はCが犯人と判断された)としても、証人としては「Bが殺した」と証言すればいいのだと思います。 証人に対して「証言時までの経験に基づいて真実だと考えられることを証言せよ」と命令するのは証人に酷でしょう。「実体的真実を証言しろ」と命令されれば、体験時以降の経験までもを考慮した上で証言しなければならなくなりますが、それは証人にとって過度の負担であって、あくまでも体験時に経験したことだけに基づいて証言すればよい、としておくのが穏当だと思います。 そもそも、実体的真実というもの自体が、その証言も含めた上で判断するものであって、証言の内容により、裁判官が判断する実体的真実も変わってきてしまいます。実体的真実は証言とは独立して存在しているわけではありません。だから、証言が、結果的に裁判官が実体的真実と判断したものと一致していたとしても、本当の真実に合致しているとは限りません。もしかしたら、本当の真実は「Cが犯人」なのに、その証言(「Aが犯人」)の影響で裁判官は「Aが犯人」が実体的真実だと誤って判断しているのかもしれません。 司法作用に対する侵害というのを事後的に判断しようとすると、すでに侵害されていることに気づくことができない場合があるわけです。私も、客観と主観をきちんと区別することが必要だとは思っていますが、体験に反する証言(主観)が裁判の結果(客観)そのものに直接影響を及ぼしてしまうことから、ここではそんなことも言ってられないんじゃないかと思うわけです。 通常の場面では主観が客観に影響を及ぼすことはないとされていますが(例外は主観的違法要素)、偽証罪においては、主観が結果的に客観と一致していたとしても、実は客観のほうが主観に合わせられている可能性もあるわけです。複数の証人が一致団結して記憶に反する証言をして真実を塗りつぶすことに成功すれば適法になるような制度でいいのかどうか。こういう事案のほうが司法作用に対する侵害度が高いんじゃないですか(これは、偽証罪裁判においては当該証言を除外して真実性を判断することにより解決できる問題ですか)。 このことは、偽造罪における「行使の目的」などの一般的な主観的違法要素のように、客観に付け加わることで法益侵害性が高まる、というのともやや性質が異なるわけです。本来あるはずの法益侵害性(客観)が、主観によりなかったことになってしまうことがあるということです。だから、まずは客観から、とみてみたら客観がないってことで偽証罪不成立としてしまうのは早計ではないかと。結果的に客観に一致していれば不可罰とするのは、結果的に死んで無いんだから死ぬ可能性はなかったということで未遂処罰をおよそ否定するかのような印象があります。 ということで、偽証罪の行為規範としては、証人に対して「とにかく自分の認識だけを証言しろ。それが間違いかどうかは裁判所が判断するから余計な気を回すな」という内容にしておくことが望ましいんじゃないでしょうか。裁判における真実性を高めるという目的をそのままの形で証人に押しつけるのではなく、証人は自分の体験したことをそのまま話してくださいとしたほうが、その目的をよりよく実現できるのではないでしょうか。 もちろん、実際の証人尋問は抽象的な聞き方をするわけではないので、個々の尋問との相対的な関係で、何を聞いているかによってその虚偽性が判断されることになるんでしょうけど。 (証人が体験したのは「BがAを殺したのを見た」だったとして) 質問1 Aをナイフで刺していたのは誰に見えましたか。 質問2 その認識は今でも間違いないと確信していますか。 質問1は体験当時の認識、質問2は証言時の認識を聞いているのであるから、証人としては、それぞれの時点の認識と一致した証言をすればいいわけです。 質問1に対して「私が見たのはBに間違いないですが、その後いろいろ話を聞いているうちに、実はCが犯人ではないかと思うようになりました」というのは、余計なことをしゃべりすぎではありますが、これは虚偽ではないでしょう。 他方、質問1に対していきなり「Cに見えました」というのは、(仮に事後的に裁判官が当該訴訟で「Cが犯人」を実体的真実だと判断したとしても)虚偽なんじゃないかと。Bに見えたという当該証人が存在することも含めて、裁判官は何が真実かを判断すればいいのであり、証人に対して「真実を証言しろ」と命令することで、当該証人の体験したことをわざわざねじ曲げさせる必要はないでしょう。 当時の体験という主観を立証することが難しいってのは、主観一般にあてはまることであって、たとえば、故意の立証が難しいからといって主要事実そのものを客観的なものに代替させることは、少なくとも、現行法上は採用されていない立場でしょう(客観的事実はあくまで故意を立証するための間接事実にとどまる)。 客観的な真実とされるものと人の認識との関係とか、哲学チックなことをもう少し勉強する必要がありそう。 たとえば、そもそも、「真実を言え」という命令と「記憶を言え」という命令は、同一人物内において異なった内容となるのかどうか。おなじだとすれば、主観説でも客観説でも(違法性によるか責任によるか理由付けは異なるものの)結論に差がでなくなるはずです。 内容が別だということで主観説と客観説とで対立しているというのは、あくまで特定の立場(人は自己が直接体験したこととは違う事実を真実と認識することができる)を共有した中での対立にすぎないということです。たとえば、人の主観の中で「体験=真実」ならば、体験をそのまま証言したが、客観的には「体験≠真実」であった場合、主観説なら違法性がなく、他方、客観説でも「体験=真実」に反するという認識がないから、故意がなくなるわけです。人の主観の中でも「体験≠真実」という心理状態があり得ると考えて初めて、主観説と客観説とが対立することができるわけです。 林美月子先生の『偽証罪小論』をよく理解できないまま読んでみて思ったことを書いてみました。なお、林先生自身は客観説を採用されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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