カテゴリ:カテゴリ未分類
京都国立博物館の妙心寺展を観て来ました。
例の瓢鮎の図は、後期の展示になるそうで残念観れませんでした。 学芸員らしい人の解説を横で聞いていましたら、ガラスビーズみたいな飾りに 修理代が250万円掛かりましたという話に皆さん、ふぇーと驚いていました。 漫画みたいな坊さんの掛け軸には、本人の顔に良く似ているそうです。と言う。 禅的、解釈が必要な作品も多いのです。 前回のコメントをもう一度読んでみる。 如拙「じょせつ」の「ひょうねんず」は京都の退蔵院にある。 今年1月20日から東京国立博物館、3月24日から京都国立博物館で 妙心寺の特別展で観られるそうである。 なまずと言う文字が鮎になっているが、中国では鯰のことを鮎と言う字で 書くそうである。 元旦の読売新聞に載っていたことだ。 この図は、瓢箪で鯰を捕まえよ。と言う不思議な図である。 この禅問答に31人の禅僧が賛を書いている。 私もこの問題を考えたことがあった。禅問答とは不可思議なものである。 考えてもわからない。 人生考えてもわからないことばかり、新聞に寄稿された、妙心寺住職 玄侑 宗久さんの解説に、すこし納得した。 一生付き合う自分というもの、そしてその心は、これが最終的に答えだ と言う物がない。心、不可得と言われ、把不住「はふじゅう」「つかまえきれない」 とも言われる。ころころの瓢箪対ぬるぬるの鯰では、埒が明かない。 あなたがたは分からない心を抱えたまま、どんな風に生きていくのか。 足利四代将軍、義持が、如拙に託して、禅僧に問いかけた内容ではなかろうかと。 不可解な人生や心に向き合い続ける「覚悟」こそが問われる。 その覚悟が無ければ、逃げになる。不可解を生きる覚悟が出来たとき 初めてさまざまな人生態度が笑って楽しめるようになるだろう。 「妙心」とは、ふつう言葉で云えば、「不可解で不思議で不可得な心」 あなたの心であると。 特別展で31人の禅僧の賛の解説を見てみたいと思う。 ■画賛の意味するところ 島尾新氏は瓢鮎図全体にわたって丹念に観察し、従来は指摘されていなかったディテールをいくつか指摘しておられるが、その中でもっとも興味ある指摘は、男が瓢箪を「持つ」(おさえる)手の形についてである。「よく見ると彼の手は瓢箪を握ってはいない。これでは瓢箪は男の手から落ちてしまうはずだ。……〈どうもおかしい〉」とし、氏はまた江戸時代の大岡春卜の写しでは「男の右手が瓢箪を逆手に〈持つ〉ように変えてしまっている」と指摘している(島尾新『瓢鮎図―ひょうたんなまずのイコノロジー』、6~7頁)。 大岡春卜(1680~1763)は大坂の人。『画本手鑑』(享保五年刊)、『和漢名画苑』(寛延二年)、『画巧潜覧』などの図譜を著している。名画の縮図を集めた、一種の複製画集である。また春卜は京都嵯峨野大覚寺の御家来衆にもなった人であり、退蔵院と同じく、妙心寺内にある塔頭の霊雲院、衡梅院にもその作品が残されている。春卜は、いずれかの時に、退蔵院で親しく瓢鮎図を実見し、その縮図を作ったのであろう。 先にも触れたように、退蔵院には、江戸期に制作されたものと思われる瓢鮎図の同寸の摸写がある。作者および制作年次は不明である。(今は見ることができないが、紙背には一星と書かれているということである)。この摸写では、男の手はどうなっているか。やはり原本とは異なっている。春卜の縮図では右手だったが、この摸写では、男の左手が瓢箪のくびれ部分を下からささえるように握る形に描き直されているのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|