100年前の先島(宮古・八重山)
100年と一口に言うが、10年一昔と言うくらいだから大昔と言う事になるか。でも今の時代人生80年。100歳を超えるご長寿もそう珍しくは無い。明治も終わりに近い1世紀前の先島諸島は、300年近くも続いた過酷な人頭税に押さえつけられ農民はただただ税を納めるだけの道具でしかなかったのである。数週間前まで私は自分の故郷の歴史についてぼんやりとした事しか知らなかった。だが、イワサキゼミを皮きりに少しずつ当時の様子がわかってきた。まず、驚いたのは民家の様相である。瓦葺の屋根に石で囲った塀が一般的だと思っていたがとんでもない。島でも1,2の士族ですら萱葺きの屋根だったのである(これは、官吏に咎められ瓦葺を萱葺きに改めたらしいのだが)。士族がそうなのだから、ほぼ奴隷状態の農民の家は「掘建て小屋」。家の周りは萱、竹、ソテツの葉を編んだもので囲っていたとのこと。台風が来たら一たまりも無かっただろう。衣類富豪ですら男3枚、女5、6枚。農民は身にまとうもの1枚しか持っていなかった。食事は主に芋やその葉、茎。粟や米は税として納めるだけのもの。調味料にいたっては、海水を使った汁をすするのが一般的だったらしい。(味噌,しょうゆ,塩などは使っていなかったのだ)宮古・八重山諸島は沖縄本島から何百キロも離れていて言葉もわからないし、役人も赴任したがらないので、単身赴任手当てとしてかなりの特権を持っていた。「現地妻」を持つことが許され、16,7のうら若き美少女を娶るのである。娶られた少女の家族も特権階級である士族になる事ができるので自分の娘を差し出す親も多かった。私利私欲の限りを尽くすものも少なくは無かった。役人の常か。宮古・八重山は琉球の「植民地」であり、本島の農民の数倍の税が課せられた。宮古島には山が無いので川も無い。慢性的な水不足と台風に悩まされ土地もやせこけている。八重山はと言えば、ハブとマラリアという恐ろしい敵もいた。旱魃、台風と自然の猛威のなか土地のある無しにかかわらず振り当てられる税。15歳から50歳までの人間は4段階に別れた税率を何が何でも払わなくてはならない。何が何でもである。大事な家畜やわずかな家財道具を売り払って、親戚村中から借りてでも払わないといけない。たとえ自然災害で人間がどうする事ができなくても。今でこそ税は(一応)納税者に還元される事になっているが、その当時は士族、王族が生活するために税を納めていたのである。自分たちの暮らしはまるで変わらない。喜びと言えば、決められた税をきちんと納められた時だったと言うから泣けてくる。宮古、八重山は本島の農民の数倍の税を義務付けられていたが八重山は1500年にオヤケアカハチという地元の豪族が琉球王朝相手に反乱を起こし(制圧された)た経緯があり宮古島より更に数倍も重い税を課せられていたのである。普通、本土ではここで農民らによる一揆が起こるのだが宮古、八重山では起きなかった。いや、厳密に言えば起こせなかったのである。王府は隔離政策をとり村村をほぼ孤立状態にしたため、方言も村単位で異なり意思の疎通もできないので集団で事を起こすと言う事はできなかった。小さい村の中では個人の動きはすべてガラス張りであった。こうして300年近くも物も言えず、役人や士族に傅くだけの農民たちに平等と言う言葉を教え旧慣廃止の原動力になったのは、意外にも新潟県出身の中村十作という名も無い青年だった。その他にも今まで沖縄の歴史にはあまり登場しない東京出身の田村熊冶、青森県出身の探検家笹森儀助らの存在も忘れてはいけない。昨日、この中村十作の伝記「真珠と旧慣」-宮古島人頭税と戦った男達- 上下巻を一気に読んだ。読みながら涙がこぼれた。これがたった100年前の出来事だったのである。タイトルに真珠とあるのは、十作の当初の目的は黒真珠を養殖する事だったからだ。実際十作は旧慣廃止後、県知事から役人になってくれと言う要請を断り最初の目的だった真珠の養殖に生涯を掛けたのだった。英雄であったにもかかわらず、彼はその功績を家族のものにすら話した事がほとんど無かったそうだ。目の前にやらないといけないことがあるからやる。ただそれだけだったのだ。もっと彼の業績を世間に知ってもらう必要があると思う。今、笹森儀助の「南嶋探検」1,2巻を読んでいる。送り仮名がカタカナで文章もほぼ書かれた当時のままなのでかなり読み辛いががんばって読まなくては。。ちょっと目に来てます。。。頭が痛くなり始めた^^;大丈夫かな。。本を読めば読むほど色々な疑問が沸いてきて、思った以上に大掛かりになりそうでちょっと焦ってる。。イタリア語の勉強最近ぜんぜんしてないぞーーー夏休みで子供の遊びにも付き合わないといけないし、ラジオ体操が終わるまで朝の静かな時間もお預け。。。 -。-;