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テーマ:1960年代英国音楽(54)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
Fleur De LysのYOU'VE GOT TO EARN ITが発売され2年半経ちましたが、以前にも復刻音源集が出てたのに、なぜ今更のように一枚で曲数の少ないアルバムが出たのでしょう? 以前出されたリフレクションズが正規リリースでは無く7"盤起こしを寄せ集めた粗悪音源CDであったとしても。
正規リリースとして初めてのアルバムとなったYOU'VE GOT TO EARN ITの発表に至る経緯を前身バンドフォーヒッツアンドミスからFDL解散まで唯一メンバーであり続けたキース・ガスターさんのインタビューから摘んでみることにしますw 「1998年に23曲を収めたCDが出されていたが、あれは海賊盤だったと考えている。出た当初は存在さえ知らなかったが、2004年にゴードン・ハスケルの家を訪問した時、彼のCD棚にコレを見つけてね。スリーヴノートに書かれたライナー文解説は間違いだらけだし、FDLの演奏して無い曲(1stシングル、ムーンドリームスB面のジミーペイジ楽曲)やウェイグッド・エリスとか入っていたり。 アシッドジャズレコードがFDLの決定盤を出さないかと持ちかけてくれたんだ。そこでFDLのセッション音源であるドニー・エルバートやシャロン・タンディ、それにジョン・ブロムリーなども含めた二枚組CDを提案したのだけど、アシッドジャズからは『コストが掛かりすぎる』と拒否されたんだ。 最終候補の23曲から17に絞りこむのに相当迷いましたよ。ワイルドな曲を選び抜いて全ての収録曲に解説を書いて、それらに誇りも持っていますが、このアルバムを聞けばFDL最高の演奏が全て詰まってると言い切れる物にはならなかったですね。 FDLのバンド特性での問題は、激しいメンバーの移り変わりにあります。その6年間で多くの音楽スタイルから影響も受けました。私たちはソウルミュージック好きでもありましたし、地獄の様なロックも演りました。私たちの世代がフリークビートと呼ばれるジャンルを生み出したと書かれている時代の音楽です。 1965年秋、私達はシェル・タルミ-の持ちかけた強欲な提示のレコード契約を断りました。その後、イミディエイトのアンドリュー・オールダムと契約し、リージェントサウンドスタジオにトニー・カルダーがレコーディングの場を提供してくれたんです。私たちもいち早くデビューし名声が欲しかったので署名したわけです。 (写真左から、ベースのダニー・チャーチル、オルガンのアレックス・チェンバレン、ギターのフランク・スミス、ドラムスのキース・ガスター) カルダーはデビュー曲として私たちにバディ・ホリーの『ムーンドリームス』を与え、練習した後の9月スタジオに入りました。ジミー・ペイジのプロデュースとされる曲ですが、彼はスタジオにいませんでした。というか私たちの誰もが当時彼が関与するとは知らされていませんでした。私はこの曲が嫌いだったし、他のメンバーも同様でした。FDLらしさが無い演奏をやらされたと言う感じでした。 同じセッションでは、ウェイト・フォー・ミーというダニーとフランクが書いたB面曲も録音したのです。 しかし、11月に出来上がったデビューシングルを聴くとB面には私たちの関与して無いジミー・ペイジの手による12小節ジャズジャムがウェイト・フォー・ミーのタイトルで収録されており、私達の演奏は無かったのです。 ショックでした。私たちフルールのメンバーは全員恥ずかしい思いをさせられました。 ペイジの言い訳は「オリジナル曲のテープが破損してた。リリース日に間に合わす為に彼自身の曲をB面に入れた」という話ですが馬鹿げてます。B面へ彼のクレジット曲を入れロイヤリティを得るための事なのでしょう。私たちをコケにしたペテンでした。このお陰で数週間後ベースのダニーはバンドを辞めてしまったわけです。 ですから我々FDLとジミーペイジの関係は蜜月関係とはとても言えないものだったので、この数ヵ月後に次のシングル『サークル』を制作する時もジミーはスタジオには着ませんでした。今度のプロデュースはグリン・ジョンズで、彼は本当のプロフェッショナルでした。」 質問者「FDLは頻繁にメンバーが代わったバンドとして知られますが、ゴードン・ハスケルとフィル・ソーヤーが加入したことはバンドにとって弾みとなりましたか?」 「ダニー・チャーチルが失望の末脱退した後、ゴードン・ハスケルが加入し、何の問題も無く収まりました。66年2月までひと月ほどドイツのクラブでプレイしてた時フィル・ソーヤーと知り合いました。彼は我々がイギリスへ戻る時一緒に帰国しそのまま正式メンバーとなりました。それと同時にハモンド奏者だったアレックス・チェンバレンが脱退してしまったのです。 帰国した我々は『サークル』をレコーディングし、66年当時最高のギタープレイをフィルがレコードに残してくれた訳です。彼のもう一つの才能は、我々がステージでモータウンスタイルのコーラスをする時に情熱的なハーモニーとなった事です。マンチェスター、ニューキー、ロンドンと各地を廻る巡業のバンの中でいつもハモる練習をしていたものです。 トニー・カルダーは66年3月4日金曜日、私たちにザ・フーのインスタント・パーティ(サークル)のカバーをしないかと提案しました。週末に仕込んで月曜にIBCスタジオで録音するつもりだったようです。しかし、私達は週末に2つのギグが入ってました。 何とかスケジュールをこなして月曜日にスタジオに行くとグリンの為に必死に演奏しました。私たちにとっても特別な経験となりました。へとへとになりながらもやり遂げた意味で。」 質問者「シャロン・タンディはどの様な経緯で参加するようになったんですか?」 「FDLは、フランク・フェンター(訳注、この頃FDLのマネージャーとなった)と出会い、彼の元妻であるシャロン・タンディを紹介されました。ゴードンとブリンと私、それにシャロンは66年から69年までアールズコート辺りの色んなフラットで共に住んでいました。私個人はシャロンの9枚のシングルで演奏しています。 質問者「ホールド・オンはこの時代最も偉大なレコードのひとつです。あなた方の演奏がなぜルパーツ・ピープル名義で発売されたんですか?」 「ルパーツ・ピープルの内幕は複雑で、正確に全てを思い出すには時間が経ちすぎました。彼らのシングルA面の事とか思い出せません。でも質問はB面に収められたホールド・オンでしたね。 この曲はゴードン・ハスケルとブリン・ハワースによって書かれています。まだA面曲のチャーリーブラウンが完成して無い頃でした。 プロデューサー、ハワード・コンドルはホールド・オン楽曲作者クレジットに自分の名前を上乗せしたことで卑劣な馬鹿野郎である事が判明しました。その上、たった一行歌詞を手直ししただけのルパーツのギタリスト、ロッド・リントンの名前も上乗せしました。そしてコロンビアからシングル盤が出る際には、レコードからブリンの名前をも削除してしまったのです。」 以上、まずは前半としてお届けします。 驚く様な当時の話がてんこ盛りですねー。 そうかー、ホールド・オンの奇妙な作者連名はこんなカラクリがあったとは。酷い話ですね。 確かにハスケル氏の過去インタビューでは「スタジオでブリンがギターを弾いて曲を考えてる間、僕が歌詞を書いていた」と述べてました。 つまりハワード・コンドル(またはコンダー)とロッド・リントンは、本来の作者ではないわけですね。 余りに長くなりすぎましたので、今回はこの辺で。続きはまた次回。 続きはコチラ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 14, 2016 04:54:41 PM
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