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テーマ:キングクリムゾン(653)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
前回からの続き
ザ・トレンドからメンバーの顔ぶれも変わらないまま、彼らはパーロフォンレコードに出戻りする事に決めた。移籍するとレコード会社は当然の如くバンド名変更を求めてきたので、ピーターはザ・ブレインにする事を思いついた。 この当時、彼らはオリジナル曲を書いてはリハを繰り返していたので、その中からビル・ル・セージのプロデュースでシングルをカットする為スタジオ入りした。独学のピアニスト/ビブラフォン奏者ビル・ル・セージは、50年代において「ザ・ジョニー・ダンクワース・セブン」の中心メンバーとして名を上げ、その後作曲と編曲における等価値の分業制を唱えた人物だった。60年代末からセージは、ザ・ビバップ・プリザベーション・ソサエティのフロントマンとしても活躍した。 ビルはバンドに完璧なウリを見出そうと、バンドが実験性に傾倒していくのを助けた。ジェームズ・ブラウンの「アイ・フィール・グッド」に心酔したマイケルが書き上げたA面曲「キック・ザ・ドンキー(いかしたブリットポップ?)」の全体にソウル風味をドロリと塗したり、B面曲では趣を変えケイジャン風味を全体に施した。 Nightmares In Redはピーターが書いた曲で初めてレコード盤になったものだが、とても奇妙で不気味さを感じさせる。単純なピアノのコードに導かれ、「僕は目を閉じ、瞼の裏で探している。」と冒頭の歌詞が始まり、以下、間の抜けた声とディズニーのダンボから引用したカラス風のコーラスに、ビル・ル・セージ自身が鼻でいびきを鳴らし、そこへバンドの含み笑いや馬鹿笑いが混じってくる。決して十全な出来ではないが、いくつかの可能性を示していた。 言うまでもなく、Kick The Donkeyは、テレビ番組Juke Box Juryで何の賞賛も得られず、エアプレイの機会も失われ、初っ端からバンドは挫折する羽目となった。 ザ・ブレインはいずれ近い将来リリース出来る様にさらに4曲制作した。Nobody Knows The Game(いくつかイイハモニーもあるが、取るに足らないポップソング)、ボブ・ディラン楽曲Most Likely You Go YourWayのひらめきを感じさせるヴァージョン、それと二つのオリジナル曲であるOne In A MillionとMurder。 失敗が繰り返されるのにうんざりしたジャイルズ兄弟はザ・ブレインを辞める事に決めた。長い時間を掛けて結局何も成しえなかった。そして何か目新しい成果を得る為にはロンドンに移転した方が得策だとは心得ていた。 曲作りと録音に専念する為首都に定住した彼らだが、目的を果たす為には、メンバー拡充しないとならないと考え、リードを歌えるキーボードプレイヤーの募集広告を本格的に打ち始めた。 オーディションを受けた大勢の中で有望な人物がロバート・フリップだった。 フリップは当時を後年振り返り、「ジャイルズ兄弟からは『新しいグループを作るので唄えるオルガン奏者を探してる』と言われた。私は元々ギタリストだし、唄わないけど、仕事を得る為に行った。ジャイルズ兄弟はすぐに私の演奏能力とノルウェー人の知識(ロンドンのミュージシャンの使うスラング/符丁)に感銘を受けた。そしてすぐさまビーコンロイヤルホテルでコンサートリハーサルを始めたというわけさ。」 まだボーンマスにいた時期、ピーターが先を見越してダウランド・ブラザースから買い取って置いたREVOX F36ステレオテープレコーダーを使い、デモ曲の数々を録音しはじめた。 組んで約一月後、全く何も起こらない為、フリップは仕事は無いのかと尋ねてみた。 マイケルはいつもの調子でさっとタバコを巻き、少しばかり燻らせた後、慎重に答えた。 「まあ、お互いあまり成果を焦りすぎるのは止めよう」 ということで、それ以上話題を続ける事はなかった。 ボーンマスの11マイル北のウィンボーン育ちのフリップは、オーディションに参加した時点で独特なスタイルを会得した熟練ギタリストとして地元ではよく知られていた。いくつかのローカルグループでも演奏経験があり、そのうち最も知られていたのがゴードン・ハスケルもいたザ・リーグ・オブ・ジェントルメンだった。 生来左利きだったにも拘らず、11歳の時から彼は右利きでギターを習い始め、熱心に自身が望んだ楽器を習得した。じきにダンスバンドやダンスコンボで腕を見込まれ演奏し、ギター教師としての自己も発見したが、フリップは21歳になるまでプロ転向しなかった。その決心をしたのはジャイルズ兄弟と組むほんの三カ月前だった。 67年9月になると彼らトリオはロンドンはキルバーンパーク傍のブロンズベリーロード93aの住居へ移動した。(下記画像は現在の当地だが町の趣は昔とそう変わってないだろう。) その夕方にはソーホーのレストラン、ラ・ドルチェヴィータでダグ・ワード*という名前のアコーディオン奏者をサポートする仕事を見つけた。(*ダグラス・ワード、豪華客船評論家として現在は世界的に有名。) ジャイルズ・ジャイルズ&フリップは、アコーディオンと演奏する考えからマルクス兄弟の喜劇映画での喧ましいBGMを連想していた。 (※現在ロンドンにはドルチェ・ヴィータというレストランが数多く存在するが、かってGGFが演奏したソーホーには既に無い模様?) ロンドンに到着すると、GGFはまもなくイミディエイトとデッカ両レコード会社オフィス周辺に、ビーコンホテルで作り貯めたデモテープを配り歩き、ブロンズベリーロードのフラット1階でリハーサルを続けていた。 デッカはいくらかの関心を持って彼らをスタジオテストに呼び、試験後には人懐っこいヒュー・メンデルとの面接に彼らは招かれた。当時デッカのARヘッド、メンデルは前年ムーディブルースを大ブレイクさせたアルバム「Days Of Future Passed」のエグゼクティヴプロデューサーだった。 最初の会見でメンデルは「君らの衣装と同じくらいヘンテコな音楽だ」とまずはGGFに言い聞かせた。 セレモニーのように立ったり座ったりするわけでもなく、メンデルは彼の椅子をGGFのいるテーブル脇に寄せて座るとくだけた調子でお決まりの話を始めた。 「さて、正直な所、君達はいったい何をやりたいのかな」 レコード契約は68年2月14日に調印され、トリオで750ポンド(一人当たり250)と無名の新人にしては前例の無い好条件の支払いを受けた。 ピーターは思い起こす「曲作り、アレンジ、リハしてレコーディングへと続くきつい三ヶ月間だった。」 三人はそれぞれ個別に曲を自作していて、リハーサル段階になってから共同作業を行ったが、これが効率をあげ迅速に成果をあげていった。 若き日のジャイルズ兄弟が駆け抜けた1960年代 その3 へつづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 25, 2016 01:12:24 AM
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