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テーマ:ゴードン・ハスケル(164)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
昨年夏(つまり2016年)にワーナーが廉価盤企画で多くのロックの歴史的な作品を発売しましたね。その中にゴードン・ハスケルがアトランティック/アトコから1971年にだしたセカンドソロ作品「It is and It isn't」もございました。アマゾンなど幾つかのサイトでは海外盤の説明に74年作品だとか72年だとか書かれてしまっていましたが、ワーナーからの再発商品説明には「71年」作品と明記されました。もうこれで安心ですねw(なにか?)。しかし、相変わらず邦題が「歳時記」とか勝手なタイトル付けられたままで難儀です。何で俳句の季語集なんだよ、ハスケルのアルバムが・・・ブツブツブツ。
さて、再発を機会とし新たにハスケル作品に触れられた方々へ、彼の60年代から70年代のズンドコ活動をご紹介しておきましょう 子供の時分、学校でハスケル君と同級生となったのが、後にクリムゾンの主となるロバート・フリップ君でした。子供の頃から天才肌で奇妙な子供だったそうですがw フリップはバイオリンで地域のジュニアオーケストラにおりました。当時ロックンロールが流行り始め、少年少女を夢中にさせてはじめていた時代。様々なロックの話題が学友の間でされるようになると、ハスケルはフリップとフリスビー遊びをしながらこう話しました。 「ボクがベースを弾けるようになったら、バンドに入れてくれるかい?」当時まだフリップはバンドも組んでいませんし、楽器を持ってる友達同士でバンドやろうぜ的な会話が結構あったのかもしれません。フリップはハスケルにジャズコードを主に音楽理論を教えたそうです。難儀な子供ですねw ま、そのお陰でハスケルは60年代半ばからあちこちのバンドやセッションで活動できたんだから教え方はともかく有意義な時間だったのでしょう。ハスケル氏も「フリップに何か教わったのはアレが最初で最後だ」と申してますし。 早速学友4人でバンドが組まれ、彼らは二階建てバスでアンプや楽器を練習場所に運び込み練習。1962年夏に最初のバンド、レイヴンズは田舎の少年たちのR&Rコピーバンドとして産声を上げたのでした。 一年程の活動でバンドは解散してしまいましたが、その1年半後1964年春バンド名をザ・リーグ・オブ・ジェントルメンとしてバンドが再結成されます。地元紙記事にも載るなどそこそこローカルで有名になったようですが翌65年夏、父の不動産業を継ぐ為の学業専念を理由にフリップは脱退してしまいます。(脱退後もホテルバンドなどでコソコソ小銭かせいでましたがw)。残されたハスケルらメンバーは新メンバーを補充しましたが程なく解散した模様。 その後、警察で仕事(何の役目かは不明)を得ましたが、一日で自分に合わないと辞めたそうで、音楽の道に舞い戻り、かってマイケルとピーターのジャイルズ兄弟も在籍した60年代前半のグループ、ダウランズのドサ周りでベースを弾いておりました(1965年末)。するとギグをみに着てたバンドのファンから「フルール・ド・リス(FDL)からベースが抜けてメンバー探してるよ」と聞き、オーディションに赴きそのまま加入がアッサリ決ってしまいました。このFDLというバンドもプロデビュー以前からメンバーチェンジが激しいバンドで、これは解散までこんな調子でしたw ハスケルのいた2年ちょっとの間でもこの有様↓です。 このバンドFDL時代、マネージャーにアトランティック欧州担当のフランク・フェンターが当たっていた為、渡英してくる様々な黒人歌手らとのツアーでのバックをやってもいたそうで、レコーディングやデモ作りでもハウスバンドとして重宝がられてたようです。肝心のFDL本体は数枚のシングル曲を出しただけで、これといったヒット曲はありませんでしたが、当時同居していたフェンターの元妻シャロン・タンディのバックを務めたシングル「HOLD ON」はスマッシュヒットしていたようです。 当時ハスケルが書きレコーディングセッションで提供した楽曲レイジー・ライフが南アフリカで大ヒットシングルとなったことを知ったフリップは、ハスケルの母親が勤めてた病院にもじゃもじゃ頭のまま現れてハスケル母を大変ビックリさせたそうで。何とか連絡を持ったフリップはハスケルに「ヒット出してるバンドがメンバー募集している。一緒に入らないか?」と声を掛けたのでした。結局その後ジャイルズ・ジャイルズ・アンド・フリップ(GGF)でデラムとのレコード契約を得てしまったフリップは行動を共にせず、ハスケルのみがバンドを移籍してしまったのでした。 このフラワーポットメンはディープパープル結成前のジョン・ロードが企画にいたバンドでしたが彼らが去るとバックメンの募集を行ないましたが、結成時期の初期GGFも一夜バックメンで参加しギグが大失敗したという因縁のあるバンドでしたw ここでのツアー契約が終わるとハスケルは、同じ様にシングルでヒット曲を出していたキューピッズ・インスピレーションに加入。ここではアルバムにハスケル楽曲を1曲残しています。 ただこのバンド、契約通りに所属事務所がお金を払わなかったらしく、1969年年明けにハスケルは離脱。近年ハスケルは当時を振り返り、FDL時代の仲間がやっとヒット曲を出したのにボクはクリスマスツアーの移動中壊れた車を雪の中バンドの連中と押している。とかなりFDL脱退を後悔してた思い出話を書いてました。 ただ、このバンドの頃までコツコツと自作曲を書き貯めており、それを元にマネージャーとCBSに売り込んだところ、デビューアルバムであるSAIL IN MY BOATの発売が決定しました。ハスケル氏に以前うかがった話では、演奏家はプロデューサーのジミーダンカン任せ、アレンジはジョン・キャメロン任せでレコーディングがどんな様子かほとんど覚えてないそうですw 実はこのジミー・ダンカン、ジョン・キャメロンの二人はキューピッズ当時の仕事で既に顔見知りだったという関係もありました。 GORDON HASKELL - SAIL IN MY BOAT (1969) ハスケルが結成直後のキング・クリムゾンのリハを覗きに行っていたのもこんな頃の話なのでしょうね。当時から凄いけどボクとはスタイルが違う音楽だと思ってたそうですが。 デビュー間もなく成功を収めたキング・クリムゾンが、69年秋の北米ツアーで分裂し、メンバー脱退が相次ぎ、明けて1970年になるとグレッグ・レイクの脱退がまだ公表されないまま新メンバー探しが開始されてました。 その頃70年2月13日、ハスケルはアルバム曲をシングル用に録り直し発売してました。 Gordon Haskell – OO LA DI DOO DA DAY この1970年ハスケルは、共通の知人である音楽制作者ジョン・ミラーを介して、ジョン・ウェットンと初めて知り合ったということです。つまりモーガル・スラッシュと同じマネジメントに属していた訳。(上記シングルのみアレンジはジョン・アンソニー) クリムゾンがシングル盤キャットフードを発売しBBCでテレビ出演した後、4月からレイクはELP結成の為、クリムゾンのセカンドアルバムレコーディングに現れなくなってしまいました。まだ仮歌程度の歌唱しかレイクがしていなかったケイデンスとカスケイドの歌入れの為、フリップは幼馴染のハスケルをゲストに招き、ハスケルも小銭が貰えるので喜んで参加したという話。 クリムゾンのセカンドアルバム、ポセイドンのめざめが出される頃、新ボーカリスト選定でフリップ側でも色々と問題が生じ多くの候補者が却下され続けていました。サードアルバム制作に向けてメンバーは固まりつつあったのですが、ベースとリードヴォーカルが未定。一時黒人ミュージカル俳優を候補にしていたのもギャラで合わず見送り。この頃ハスケルがフリップに再三クリムゾンへの参加を打診されては断り続けてた時期。結局ハスケルは奥さんから定期的な収入が欲しいと言われて加入を決心したのだそうで。 キング・クリムゾンのサードアルバム制作に1970年夏から秋に掛けて参加したハスケルは、制作後に引き続き行なわれたライブ用のリハーサルにおいてキー変更に応じないフリップと喧嘩しそのまま脱退。 勢いで飛び出したがいいが、何も計画がない。そんなある日、ジョン・ミラーから「今ロンドンに、アーメット・アーティガン(アトランティックレコード創設者)が滞在してるよ」とホテルを教えてもらったハスケル。早速アーティガンに売り込み、彼の目前で自作曲をギターで5曲ほど披露する場を与えられた。アーティガンはその場で非常に気に入り契約を即断。ハスケルも契約で借金の肩代わりまでしてくれるというアーティガンに助けられた形。彼のセカンドアルバムIt is and It isn'tの制作は、ハスケルの希望通り名プロデューサーであるアリフ・マーディンに決まり、アリフがビネガージョーとレコーディングを予定してたスタジオで2週間掛けてレコーディングされた(その後ニューヨークでの追加録音もあったが)。 演奏参加者にはハスケルの友人たちが起用され、ベースにジョン・ウェットン、ドラムスにはビル・アトキンソン(別名ビル・ハリソン)と解散したばかりのモーガルスラッシュからの2名。リードギターにはハスケルと同郷でダウランズ時代の旧友アラン・バリー。キーボードにレアバードのデイヴ・カフェネッティなどが参加。 このロンドンでのレコーディング時期が長らく未解明で、ハスケル氏も忘れたといっていたが、ジョン・ウェットン氏に「あなたの活動歴から推測するとファミリー加入直前の8月しか可能性が見当たらないのですが」と確認したら「今出先でちょっと日記が無いので判らないけど、たぶんそれであってると思うよ」と言われましたので、たぶん8月w じゃないかと。 gordon haskell - It is and It isn't (1971) タイトルで名前が小文字表記なのでそれに準拠。アルバムの発売に合わせ71年11月末、ロンドンのレインボウ・シアターで初ソロステージ(競演はウィッシュボーン・アッシュ他)。当時既にウェットンはファミリーに加入してたのでココに参加した考えからは除外。この後ハスケルはスタクリッジやオーディエンスらとの英国国内ツアーも廻っていたそうです。一部で書かれてた米国ツアーはオファーが無かったから「アメリカツアーにはいってません」との事。 セカンドアルバムはビルボードなどでも好意的に評価されたが、70年代末でも日本でシールドされたLPが999円でバーゲン販売されてる事もあった位で、現実問題としてアメリカじゃ当時ツアーやら無いアーチストが売れる訳も無かった・・・ということになるのでしょう。 音的にはアメリカでマーディンの手により最終マスタリングされたアルバムですから、ATCO盤が英アトランティンク盤LPより落ちるって事でもなさそうです。 結局ソロで思うように売れず、また他のタレントのバックでベースマンとして収入を得ようと思ったハスケルはその後、ティム・ハーディン、旧友ブリン・ハワースなどのステージでベースを弾き、いくつかのレコードでセッション参加していました。(スタクリッジやご近所のアルヴィン・リーとはリハのみで終わってしまったそうですが。) 1970年代中期、ブリン・ハワースのバックバンドで意気投合した加藤ヒロシらとバンド「ジョー」を組むと変名バンドを含めいくつかのディスコソングレコードを制作しています。 この時期、ジョーが演奏したもので一番有名なのが山口百恵ロンドンレコーディングアルバム「ゴールデン・フライト」がありました。このレコーディング時、ディレクター氏の談話でハスケルは自作曲を50曲ほど貯め込んでいたというお話がありました。 また同時期ロンドンの地下レストランで3人編成のフォークグループでも活動。そのメンバーからの紹介でクリフ・リチャードのバックバンドへ加入し、合計で12週間世界各地でプレイしていたそうです。当時わずか3日程、アラン・バリーもギタリストとして参加し、ハスケルと一緒のステージに立っていました。とハスケル氏本人の弁。マネージャーともめてバリーさんは可哀想に解雇されたそうですが。 70年代末、ハスケルは60年代に最初の自作曲をレコーディングした南アフリカの歌手、ビル・キンバーに招かれRCAと契約。キンバーがこの当時RCAで重役となっていたのが幸いしたそうです。貯めに貯めたオリジナル曲から選りすぐってレコーディングし、待望のサードアルバムが制作されたのは世の中がパンクに溢れかえっていた時代。多くのベテランミュージシャンが仕事を失ってた時代でもありました。結局、サードアルバムServe at room temperatureは、制作後極少量がテストプレスされ印刷も何もない白ジャケットの姿で配布されたのみで世間には発表されませんでした。かろうじて3枚ほど出されたシングル盤レコードにアルバムから曲が収められ発売されましたが、私を含めマニアが買う程度じゃ売れ行きもたかが知れてました。 サードアルバムは1997年、日本のEvangelレコードが発売。ツイッターでココモJP様から、友人が発売元のレーベルをやっていたと伺った際は、世の中狭いなと思わされましたw こちらは97年発売となったCD その後本国でも発売されたそうですから、世の中捨てたもんじゃありませんね♪ このアルバムの後ハスケル氏はソロシングルに5-10-15というディスコ曲を発表しましたが、80年代のレコードはここまで。以後は北欧地域のバーなどをギターかついで弾き語りで長らく廻っていたそうです。彼が再びレコーディング出来るようになる1990年まで約10年。そして21世紀になり大ヒットを出した2002年まで、ここからまだまだ遥かに長い道のりが続いて行ったという訳です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jan 13, 2017 11:57:53 PM
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