クルマとの別れ、これまでで最大の「断・捨・離」となった...
とうとうクルマを手放すことになった。私は高齢者にはまだ遠いが、いろいろな事情が重なり手放さざるを得なくなった。学生時代の二輪車時代も含めると、40年以上途切れることなく運転してきた自動車が自分から無くなってしまうことに、なんともいえない寂しさを感じる。喪失感と言ったほうがピッタリくるかな。でも、歩きや自転車利用によってクルマ頼り生活では見えなかったものも見えてきた。今真夏の時期にクルマなしで移動するのは大変だ。外は灼熱地獄。土の無くなった道路の暑さはハンパない。そんななかを日傘をさして高齢者が買い物などで歩いているのだ。常にクルマに乗って移動していれば、そうした歩きで移動する人の大変さはわからない。これは部屋のエアコン暮らしでも同じ。人のいる空間で、そこにある大量の熱を身の回りから排出しているのだ。排出された熱は、あるいは二酸化炭素はどこかへ消えてしまうわけではない。大気へと流出し続け、地球の温暖化、急速な気候変動をもたらしている。これは原発の使用済核燃料の処分の問題とも通ずる部分がある。人は危険なものやその状態が自分の身近になければ、その問題に真摯に向き合おうとはしない。今の自分の生活の利便、都合だけを求めるのだ。とくに日本人には「みんないっしょに破滅なら、そんときゃそれでいいじゃん!」みたいな感覚の人が多い。先の大戦時の感覚、“一億総玉砕”みたい。日本人の心性は実のところそう変わってないのだ。人類文明の行く末になにがあるのか。私には想像がついている。国際機関などがその危機を訴えて、つねに警告を発しているが、各国政府で実際にとられている対策は大部分情緒的なものだ。人はその欲望に歯止めをかけることはできない。みなが破滅するまで、欲を生きることは続く。キリストや釈迦はその破滅を回避するため、特殊なソフトウェアを開発しそれを人にインストールしようとしたが、どうもうまくいかなかったようだ。いまだに地上に物質的理想郷を作ろうとしている人間。その様子をどこかから見つめる至高者は何を思うか。審判は、この人類繁栄の時代にきっと下される。クルマよ、お世話になりました 米モータリゼーションの歴史と未来 [ ケイティ・アルヴォード ]