反原発と、原発ゼロの日。
日本に戻ってくるといつも物が溢れていて豊かに見える。特にあまり物資の豊富ではない、選択肢のない国から戻ると余計そう思える。最初は感動する。だけど暫くすると、実際いくら選択肢があったって、自分が選ぶものは大抵一つだけなんだよなあということにも気づく。例えばカフェにドリンクメニューが100種類あったって、飲むものはきまってブレンドコーヒー。もちろん100種類の味を全部試したい人には日本って国は良い国なんだろうけど、私なんかにとっては、必要のない無駄なものが大量に溢れているような感じもしないでもない。物や情報がオーバーフローしている気もして、時々疲れる。なるほど、こういった社会では恐ろしいほどの無駄なエネルギーが必要なんだな、ということがあからさまに見て取れる。これじゃ、原発が必要だというのももっともな話だ。エネルギーを最大限に利用し大量生産された商品は、売れ残れば、またエネルギーを最大限に利用し大量廃棄されてゆく。街はコンクリートで埋め尽くされ、エアコンなしでは過ごせなくなり、そのエアコンの排熱が更に都市部を熱帯化させ、ますます電力に依存せざるをえなくなる。政府は雇用を促進し経済活動を活発にするために、無駄な事業を増やしてゆき、それが無駄である事実を隠すために、更に無駄な仕事を増やしてゆく。無駄な物品を購入し、無駄なサービスに紙幣をばらまき、そこに組み込まれた人々を手慣らしすっかり依存させてゆく。彼らは与えられた無駄な仕事にあくせくと時間と労力を費やしながら、その忙しさの意味に疑問を持つことすら諦めている。すべては一部の利権者達のために都合の良いようにお膳立てされた経済を回すためだ。こんな経済社会を維持するには、原発くらいのエネルギー源がなくてはならない。そもそも原発自体が一つの産業クラスターでもある。これがなければ多くの関連産業が停滞し沢山の人の職が失われ、死活問題にも関わってくる。こういう社会では無駄が淘汰されてしまうと経済活動が営めなくなってしまう・・・。どうすればこんな悪循環を考え付けるのだろうか。まるで麻薬の売人のような日本の官僚達にはある意味畏敬の念を抱かざるを得ない。なんでこんなことになっているんだろうとぼんやりと考えてみる時、結局、すべては生存本能に回帰する。いきつくところは現在社会に生きる人間の生存欲に基づくのだと分かってくる。誰もが日本社会で生き延び、子孫繁栄するための傾向と対策に従っているのだ。良い学歴を持ち、安定した職場に勤め、決して上司や組織に歯向かわず、長いものには巻かれ、品行方正であり、社会に荒波をたてず、老後の安定までしっかり計算しながら、堅実に生きてゆく。これが賢いとされる。ある意味簡単だ。敷かれたレールに無言で従っていけばいいだけだ。誰がどのように敷いたレールなのかと言うことには目をつぶり。空気を読みながら・・そう、空気。日本社会は空気によって支配されている。民主主義というよりも空気主義の社会。個人の思考なんてそれこそ無駄なだけだ。読空術が何よりもの武器。「仕方がない」それが合言葉だ。「仕方がないじゃないか」がスローガンだ。そしていかに「仕方がないよ」とさらっと言ってのけ、周囲を説得させてしまうか否かに、できる社会人としての美徳が祭られている気がしないでもない。こうしておかしな価値観に捻じ曲げられた生存本能は人々の視野を狭くさせ、自分の地位、一組織、一企業の利益だけを優先するあまり、社会や地球環境というもっと大きな枠組みをすっかり忘れさせてしまう。 大切なのは自分の安定と家族の安泰。いつ起こるか分からない事故が、土地を殺し、病気や遺伝子異常を引き起こし、子孫衰退の道をたどりかねない危険にさらされていることには気がつかない。嫌、見て見ぬふりをする。大丈夫だと人任せにする。考えるのが面倒だからだ。何かおかしいとは思っていても、「仕方ない」と甘んじてしまう怠慢。これが日本社会がうまく回っていたように見えた原因だろう。しかし、3.11後、福島の事故を一つの教訓にしようとする動きが、珍しく日本の民間から沸き起こったことに正直驚いた。ここまで普通の日本国民が目覚めるとは期待していなかったから。反原発といえども様々な人がいて、中には政治家や一般の東電職員を中傷して喜ぶだけで、自分では何もしないような、それこそ卑屈極まりない馬鹿もいる。というか、そういう人達が多いイメージだ。だけど、今回は普通のまともな、今まで社会に組み込まれていたような人達も、ある程度覚悟を決めて反原発の声を上げていた。まあ私なんかは失うものがない分、好きな意見を好きな時に言えるんだけど、そうじゃなくって、自分の意見を主張することで地位を脅かされる種の人達からも、これで会社を首になっても、社会的に排除されてもいいんだという潔さが窺えた。なんとなく、日本社会が変わってゆく空気を今リアルタイムで体感している気分。とはいえ、もちろん、これからが大変だ。化石燃料は世界で減ってゆく一方で、資源のない日本はどうするのか。原発推進派はそんなこと無理だと言う。皮肉な話、福島原発の稼動を被災者が一番望んでいたって話もある。職がなくなる、収入源がなくなるのは困ると。欧米だったら、あっさり「他に職を探してね」というスタンスをとれるだろう。だけど、日本はある意味、まだ優しい。それゆえに人をダメにしてきたように、ウエットだ。なかなか人を切ることが出来ない。可哀想だと思い人に無駄な仕事を与えてしまう。ま、個人的にはそういう日本っぽいウエットさは好きだし、それをなくして欧米的合理主義に進んでしまえば日本も終わりだと思うけど、悪循環を断ち切るには無駄をなくさなければならない。なにも、末端や現場で働く人々を切ればいいというのではない。むしろその優しさ、精神論、ウエットさを利用して、持てる者が持てないものにシェアしてゆくという美徳を作り上げればいいのに。もう十分持ったものは、静かに身を引き、全部社会に還元すればいいのだ。そもそも問題はこの社会の上層部の執念に似た強欲さにあるのだから。まあ、それを変えるのは難しいだろう。じゃあ、それを変えるまでもなく、自分達が変わればいい。エネルギーを消費しなければいい。無駄なものを購買しなければいい。利便性を追求しなければいい。そんなことしたら、文明が退化するといわれるかもしれない。だけど、エネルギー消費の効率性を追求するのも文明だし、生き方の代替案を考えるのも立派な文明じゃないか。かつては原発がなくてもやっていけた時代はあった。クーラーなしでも生きていけたし、人は梅干しと御飯だけでも元気に働いていた。皆、独自の気候風土から生まれた様々な知恵や工夫を駆使して、生活していた。科学は進化しても、人間は本質的に古代からほとんど変わらない。一人の人間として見た時、昔の人間と今の人間は同等か、もしくは今はちょっと退化しているんじゃないだろうか。昔の人々の文学・芸術作品や偉業の中に、到底今の人にはまねできない精神世界や哲学があるのを確認すると、そう思う。環境は便利で合理的になったけど、まわりは選択肢でいっぱいになったけど、人間性は退化の道をたどっている気がする。国際的競争力が弱るとかいうけれど、一体どんな土俵で誰と競争して、どんな評価を得たいと思っているのだろう。いいじゃないか。先進国じゃなくても。経済的に弱化しても。どのみち国際的発言力なんてないんだから。それに本当の日本の競争力は別に経済力なんかじゃない。いにしえからの職人の魂を受け継いだものづくりの正確さや精密さ、決して妥協しない完璧への追求が他の国にはなかなか真似のできない日本の競争力だ。それを違う土俵で競争しようとするから、馬鹿にされる。エネルギーが足りないという条件で、いかに豊かに生きるか。これが今後の日本が世界に誇れる競争力となるんじゃないだろうか。そんなことを、今の危機迫った日本の状況は改めて教えてくれる。分からない人にはわからないだろう。だけど、特徴的なのは、分かってしまった人がかなりいるってことだ。そして、もはや空気や外圧に屈するほどのヤワでもないってことだ。いつしか、そういう人がメインの空気になっていけば、そうじゃない人も黙るだろう。そういう面で、空気主義の日本は実はとっても合理的な国なのかもしれない。国内の原発が全其停止し、そして再稼働も難しい空気の中、なぜか胸が高まり、こんな日本をそれほど悲観していない自分に気がついた。むしろ、日本はこれからだという気がしてきた。