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テーマ:☆アテネ五輪☆(335)
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というようなことを、ふと、思いました。
福原 愛ちゃんの卓球の試合を観ていて、です。 愛ちゃん、勝ちを急ぐようにも見受けられる打ち方をしたとき、 自分からミスして、相手にあげてしまった失点が、かなり、あったように見受けられました。 私は、心の中で、 「愛ちゃん、卓球そのものになってね。」 と、祈ってました。 オリンピックの競技って、いろいろあるのだけれど、 自分なりに感じたことは、 各選手、自分の選んだ競技で、その競技そのものに自分がどれだけなりきれるか、ということが大切なことになるのではないかな、と、いうことです。 その競技になりきれた度合いの高かった選手は、おのずと、優勝するのではなかろうか。 その競技になりきるということは、その競技の真髄をどれだけ、自分の心・技・体で顕現できるか、ということであり、 そこには、実際、「敵」はいない。 競技の相手すら、ともに、その競技の真髄を体現しあう同朋であるのだ。 競技の真髄を体現すること、その究極は、「神」の領域、神技の世界、である、とも言えるかもしれない。 完全にして完成されたものが「神」と呼ばれるとするなら、 オリンピックで「金」メダルをとった選手は、 その競技の中で、限りなく「神」に近い人である、と、言えるかもしれない。 限りなく「神」に近いのだから、一番「神」近い人は、その競技において、おのずと、勝ち、優勝することしか起こりえない、のだ。 競技の相手も、実は、とことん、全身全霊を発揮してほしい、親友なのである。 相手の選手も、全身全霊、力の限り、を、発揮してください。 自分も、(自分たちも)、全身全霊、力の限り、を、発揮します。 そして、勝敗は、おのずと、「神」に近い順に、決まる。 オリンピックだから、こんなことを、考えてしまったのだろうか。 実は、オリンピックの競技は、戦うものでも、争うものでも、ないのである。 その競技の真髄たる「神」を、人間の、心・技・体をもって、互いに、顕現し合う、神聖なるものなのだ。 言葉を変えれば、勝敗は、その競技の「神」が、決める、とも、いえるであろう。 「神」に選ばれし者が、「金」メダルの受賞者なのである。 選手は、ただ、自分の選んだ競技で、自分の持てる、最大限の能力を発揮することに、全身全霊を傾けるだけなのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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