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愛知の乳児虐待死の判決のニュースをいまさら知り、ショックを受けた。
「次男をベッドから抱き上げ、隣の和室へ。少し勢いをつけて畳の上に投げ落とした。泣き続ける次男を再び投げ落とすと「気持ちが少し落ち着いた」。次男は約2週間後、搬送先の病院で息を引き取った。」 (三つ子の育児、背負い込んだ母 泣く子を投げ落とした夜 朝日新聞デジタル 2019/3/16) 「"少し"勢いをつけて」「泣き続ける次男を再び」 この箇所を読んだとき、血の気がさーっと引いたのが分かった。 朝日新聞の記者が、記事の方向性のために、文章に手心を加えたのは明らかだ。 投げ"落とした"のではなく、床にたたきつけたのだ。 ここを読んだときの感情を表現する言葉が見当たらない。 凄惨、むごいが少し近い。 しばらく呆然とし、ショックを和らげようと、他人の感想を探した。 ツイッターでは性別は分からないが育児の専門家以外は、多くが女性からの意見のように思えた。
追い詰められたお母さん…。悲しいです。#三つ子 そこでは、多くの人が口々に育児を抱えていた母親への同情と、裁判所と父親への批判を繰り広げていた。 そして、多くの人は、母親に心底同情し、育児支援を訴えていた。 それを見て、なんとも言いようの無い、不条理な、腹立たしい気持ちになった。 なぜ、乳児ではなく、母親なのだ? そう思った。 このもの言えぬ乳児の、こんなにも不条理な結末に同情する人が、少ない。 頼んだわけでもなく勝手に産み落とされ ミルクがうまく飲めず苦しみ 何かを訴えようと泣いていたら 自分を愛し守ってくれるはずの母親に 床にたたきつけられ 激痛に泣けば また叩きつけられ 殺された。 その乳児の痛みに、絶望に、不遇に同情する声が、少ない。 そうだ。育児支援は必要だ。 だが、それは親のために必要なのではなく、子供のために必要なものだ。 どうして、こんなに多くの人が、母親の処遇に涙して、乳児のために涙しないのだろう。 自分に近い者に同情し、自分から遠い者のことを忘れ、自分から遠い者を批判する。 どうして、こんなに身勝手なのだろう。 ツイート炎上の参加者は全体の0.5%だという。 この事件に発言しているのは、ごく一部の人に違いないと思いたい。 発言しなかったほとんどの人は、殺した母親のためにではなく、殺された乳児のために涙したと思いたい。 「どうにも、世論というものは、このあたりが限界なのかもしれない」 という暗たんたる気持ちに支配されつつ 私は、せめて私だけは、もう泣くことができない乳児のためだけに悔し泣く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019/03/21 07:08:31 AM
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