母は才長けて、眉目麗しく、情けあり
もう随分前に読んだ本だが、思いつくまま、ここに紹介しておこうと思う。『チャーチルが愛した日本』 関榮次・著 PHP新書513 2008年3月発行。チャーチル・・・そう、第二次大戦時の困難な時期に英国を導いたあの厳つい顔の宰相である。写真をひと目見ればわかりますが、意思の強そうな(失礼ながらブルドッグのような)容貌の政治家です。第二次大戦についての私の知識は、ほとんどが日本とその侵攻国、そしてアメリカ合衆国の対応についてであり、当時の英国の事情については「ヒトラーのV2ロケットによるロンドン爆撃があったな」程度で、まったくといっていいほど知らなかった。英国の戦いは主に欧州戦線で、日本とはあまり関わりが薄かったのだろうと思っていた。かろうじて、映画「戦場に架ける橋」に日本の将校と英国人捕虜との確執が描かれていたので、「ああ、こんなこともあったのか」程度の理解に過ぎなかった。本書によって当時の英国政治の様子が理解できたのは収穫だった。さて、『チャーチルが愛した日本』だが、話はこの宰相の両親の時代から始まる。というより、主に彼の母・ジェニーについて、この書の半分のページが割かれている。それは当然である。この書はチャーチル母子の物語なのだから。そして、なぜチャーチルは国際社会の中で、東洋の黄色いジャップをひとり庇護し、意に反して軍国主義に向かう日本を憂慮し、本気で止めようとしていたのかは、すべてこの前段が大きな伏線となっている。ウィンストン・チャーチルが誕生したとき、父のランドルフは25歳、母のジェニーは弱冠20歳である。(まあ、昔はこれくらいの年齢が普通だったんでしょうね)右からウィンストン、母ジェニー、弟ジョン父の家系は英国の名門、母はアメリカの実業家の娘だが、主に欧州で教育を受ける。美貌と才気に恵まれたジェニーは少女の頃からパリ社交界などでもてはやされ、英国社交界でもその評判は高く、名門の求婚者はひきもきらなかったといわれる。一方のランドルフは名門の生まれではあるが、内向的な性格で、後年は政治的にも失敗し、恥ずかしい病にも犯されるという、いわゆるあまり出来の良くないお坊ちゃんである。双方の両親の反対を押し切って、なぜ彼女がこのランドルフを選んだかは、私にははなはだ疑問だが、まあ、結婚とはそういうものなのであろう。で、この結婚は必ずしも幸福なものではなかったが、主題はそこにあるのではなく、チャーチル夫妻の日本滞在にある。英国内でいろいろトラブルがあり、しかも病を得た夫ランドルフと共に夫妻は逃げるように長い世界一周の船旅に出る。そして、ジェニーは1894年(明治27年)9月10日に日本の地を踏む。時は日清戦争が始まったばかり。国際世論はその賛否に大きく分かれていた。夫ランドルフは旅行中にも錯乱状態になることがあり、それを介抱するジェニーの心身の負担は大きかったが、それでも彼女は人前では陽気にふるまい、旅を楽しむことも忘れなかった。そして、どの国よりも彼女を慰め、癒してくれたのは、風物がすべて温和な日本であった。「やわらかな灰色と緑色の静寂な日本の風景といい、いつも優しく微笑みを絶やすことなく、客の応接に静かにてきぱきと立ち居振舞う足袋を履いた日本の娘たちの姿といい、すべてが彼女にとってほんとうに心休まるものであった。 ジェニーは夫を介抱しながら横浜、箱根、東京、日光、京都など各地を訪ね、その間に明晰な頭脳、すべてに公平で包容力のある態度、そして透徹した審美眼で日本文化の優れた精髄をすばやく感得し、愛し、そして忘れることはなかったのである。」(P.84)「いつも優しく微笑みを絶やすことなく、客の応接に静かにてきぱきと立ち居振舞う日本の娘たちの姿」←耳が痛くなりませんか? (笑)そうしたジェニーの日本への強い愛着は2つの紀行記として書き残されている。私がおもしろく思ったのは、ジェニーには母方の先祖に北米インディアン(今風に言えばネイティブ・アメリカンですな)の血が混じっていたことだ。アメリカ先住民をアジア人と定義できるのかどうかわからない。しかし白人系でないことは確かである。アメリカ映画に登場するインディアンでなく、彼らの実際の写真を見たことがあれば、ああ、これはまるで日本人だと感じる人が多いだろう。彼女が日本を訪れ、滞在中に日本人とその文化に大いにシンパシーを感じたのは、あるいは彼女の内奥の血の影響ではないだろうか、と私は勝手に解釈するのである。こうした母に育てられたウィンストン・チャーチルは幼い頃から日本の話を聞かされていたに違いない。彼が本気で日本に配慮し、日本参戦への道を防ごうとして努力したのも、この幼い日の記憶が影響しているだろう。しかし彼の努力もむなしく、先の読めない日本の政治家、お調子者の軍部、それに乗っかる御用商人たち(こういう連中はいつの時代にもいますから、新聞記事などまるごと信じないで、自分の目でしっかり見張りましょうね)によって踏みにじられることになる。戦時中は敵として対処せざるを得なかったが、戦後の日英関係の再構築に関しては、チャーチルの配慮と力が大いに寄与している。チャーチルの懐の深さがわかります。チャーチルが晩年を過ごしたロンドン郊外の家はまだ残っている。その書斎を訪れた著者は、チャーチルの母への愛惜の思いが伝わってくる置物をその部屋の窓辺に見出すのである。 母ジェニーの左手のブロンズ塑像 「チャーチルが愛した日本」というタイトルの「チャーチル」とはもちろん、一般的にはウィンストン・チャーチルを指すのであろうが、私には彼の母ジェニー・チャーチルをこそ暗にタイトルに冠しているのだと思われる。凡百のチャラけた本の洪水の中で、こうした本こそ出版されなければならないと思うのである。さて、ここにもう一冊の本がある。これも滅法面白い。次回は、ヨーロッパ共同体思想の育ての母と呼ばれた「クデンホーフ光子伝」を紹介することにしよう。