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カテゴリ:私的岩手通史の旅
帰宅すると、アパートの拙宅玄関脇にダンボールやタフ紐、ガムテープ等々が積まれていました。一瞬びっくりしましたが、隣室の方が手配した引っ越し業者が置いていったようです。夕べ遅くまでゴゾゴソ音が聞こえましたから、引越間近なのでしょう。
「春近し隣りは何処へ行く人ぞ」 私的岩手通史の旅 第11回 古墳時代1(角塚古墳 奥州市胆沢区) 弥生時代を象徴する農耕の発展に伴い、各地で首長を中心とする社会が形成されてきました。この頃(紀元前1世紀)の日本は「倭(わ)」と呼ばれ、100余りの国に分かれていたそうですが、弥生時代後期となる紀元3世紀には邪馬台国の女王卑弥呼が国々の争いを収め、日本という島の中が統一され始めました。 その3世紀後半になると、九州北部から近畿地方にかけて「古墳」が造られるようになりました。古墳が特定の個人を葬る事を目的とした「墓」であると、小学校で学習したことをご記憶の方も多いと思います。 古墳と聞いて私の脳裏に浮かぶのは、大きな堀で囲まれた大阪府堺市の前方後円墳「仁徳天皇陵」ですが、日本最北端にある前方後円墳とされるのが奥州市胆沢区にある「角塚古墳」です。奥州市水沢区から国道397号線を西進すると道沿いに現われます。 (雨の中の角塚古墳 -奥州市胆沢区南都田 H20.6.29-) 角塚古墳の全長は44~5m、後円の直径は32mで、機内にある前方後円墳の10分の1程の大きさですが、発掘の結果、畿内のそれと同じように周囲には濠をめぐらせ、墳丘上に埴輪を並べた典型的な前方後円墳だったそうです。 埋葬されたのが誰か分かっていませんが、この地域を支配していた者であるのは確かでしょう。5世紀後半に畿内と同様な古墳が築かれたいう事は、1000キロ離れたこの地がすでにヤマト政権の影響下にあったと想像されています。政権から派遣された重鎮だったのかもしれませんね。 (空から見た角塚古墳 -岩手県立博物館-) 3世紀から7世紀までを「古墳時代」と呼ぶそうですが、7世紀というと紀元600年代です。聖徳太子が「17条の憲法」を制定した604年や「大化の改新」の645年も古墳時代の出来事なのですが、古墳時代という時代区分と結びつける事にちょっといづい感じがします。 ちなみに「仁徳天皇陵」と覚えた前方後円墳ですが、現在では学問上の疑問点があることから地名の「大仙陵(だいせんりょう)古墳」と呼ぶそうです。4半世紀以上経つと、歴史上の名称も変わるのなのですね。 1年前のメニュー・・・「471)栃木散歩 日光市(杉並木寄進碑)」 2年前のメニュー・・・「214)栃木三十一景 茂木町(夕日堂と朝日堂)」 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年03月21日 20時13分24秒
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