ニャン友
人間は考える葦である。我思う故に我あり。誰が言ったかは忘れたがこんな言葉をふと思い出した。「考える」ということは人間固有の特性であると僕は思うのだが(ごく一部の類人猿除く)、それは必ずしも長所とはいえない。もちろん、今僕がこうやって駄文を世界に配信できるのも人間が「考え」たことの積み重ね故であり、その事による恩恵は甚だ大きくはある。しかし、時に「考え」ることによって迷い悩み、事の本質を見失ってしまうのもまた人間である。以前実家にネコが来たという話はしたと思う。はっきり言って日記の内容は正味の日記であったが、「動物と子供出しときゃ数字は取れるんだよ」とどっかのディレクターだかプロデューサーだかが言ったとか言わないとかで、僕の中にもそういう邪な算段はあったかもしれない。以前そんな安易な形で紹介したネコであるが、今回は計らずも僕に大きな「気付き」を与えてくれた。このネコは野良から愛護団体へ、そして我が家へとFA移籍を繰り返してきたさすらいのネコである。(ここで「股旅者」というオヤジギャグを思いついたが、それは封印しておこう)巨人の清原和博が徳光(僕は死ねばいいと思っている)に「今年は泥水を飲む覚悟で・・・云々」という決意の手紙を送ったことは一部スポーツ紙(報知新聞。ぼくは廃刊になればいいと思っている)で報じられた。同じFA選手という事で相通ずるものがあるのか、うちのネコも泥水を飲む覚悟でうちにやってきたようだ。実際、餌場にあるキレイな水飲まず、父の入れ歯を浸けてある水を飲んだり、風呂場の洗面器にたまった水を飲んだりしている。何の意味があってそのような水ばかり飲むかはわからない。持って生まれた本能なのか、変なところの水ばかり飲む。そのおかげで家人は今まで気にも止めなかった場所の水の清潔さにまで気を配らねばならなくなった。そんな変なネコであるから、僕の興味を引いたことはごくごく自然であって、気が付けば実家に帰るとネコの行動を目で追う日々だ。そんなある日。僕がバカみたいな顔でテレビを見ている横で眠っていたネコが、やおら起き出しゆっくりとだが一直線にある場所に向かっていく。それが普段のきままな散策にでかける様子ではなく、はっきりとした目的行動であることを、一目して見抜いた僕の慧眼は全米一位くらいのスタンディングおベーションで賞賛されるべきであることはさて置き、とりあえず僕は彼を尾行することにした。追跡すること10秒弱、すぐに目的地が分かってしまう我が家の狭さが恨めしい。彼の目的地はトイレだった。オシッコか?ウンチョスか?(ウンチョスに対応するオシッコの呼称を募集)僕の胸が高鳴る。ネコの排泄でなに高鳴ってんだと思うが、高鳴るんだから仕方ない。君も大人になれば分かる。正直、ネコが用を足しているところを人に見られるのは精神衛生上よくないことは知っていた。全国の愛猫家の皆さんからは外道、鬼畜と謗られるかもしれないが、それでも僕はどうしても一度じっくり見てみたかった。許して欲しい。そんな事を色々考えているうちに、彼はついに構えをとった。座位よりはやや前傾のクラウチングスタイルだ。中腰を支える後ろ足が微かに震えている。ビー玉のようなまん丸な目は僕のことなど見ていない。しっかりと正面を見据え見開いている。そしてそれは始まった。ウンチョスである。相変わらず目は真正面、中空をじっと見つめている。足の震えは先ほどより少し大きく、しかし無理な姿勢を力強く支えていた。今、彼は全力である。もし足の力が萎えてしまったら。彼は自分のウンチョスの上に尻餅をつくことになる。もしその目が僕を映していたら。彼の集中力は途切れ、同時にウンチョスも途切れるかもしれない。今、彼は全力なのだ。僕は思った。嗚呼、生きるとはこういうことなのかと。そして自らを省みた。自分は今までここまでの真剣さをもってウンチョスをしてきたのか、生きてきたのかと。汚い話で申し訳ないが、僕は用を足す時必ず何か読むのが癖になってしまっている。お腹を壊し、あと数秒遅れたら成人男性として取り返しの付かない事になってしまいそうな、まさに人生の危機と言うべき時でも何か読むものを探している自分。生きると言うことはウンチョスをすることだ。僕は、その生きるという根源の動作をあまりにお粗末に扱ってきたのではないか。またはそこに余計な考えを差し挟むことによって、中途半端な姿勢で臨み、生そのものを愚弄してきたのではないか。ただ、ウンチョスをすればいいじゃないか。そう、ただそれのみを一心に。スコップですくったニャンのウンチョスの臭さが、「生の実感」をさらに与えてくれた。